千石興太郎(読み)センゴク コウタロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「千石興太郎」の解説

千石 興太郎
センゴク コウタロウ


肩書
農相,産業組合中央会会頭

生年月日
明治7年2月7日

出生地
東京・日比谷

学歴
札幌農学校〔明治28年〕卒

経歴
札幌農学校の助手として植物病理学の研究に従事、菌の新種“ウンシュラ・センゴクアイ”を発見。その後、明治39年松江に農業技師として赴任し、大正8年まで島根県の産業組合の推進に心を注ぐ。9年産業組合(農協前身)中央会主事、15年主席主事、昭和9年理事、14年第7代会頭となり、“産組の独裁王”といわれる活躍ぶりだった。この間、昭和13年貴院議員。敗戦直後の東久邇内閣では農相に就任。のち公職追放。著書に「産業組合概論」「産業組合の陣営より」「我が農村建設」などがある。

没年月日
昭和25年8月22日

家族
長男=千石 龍一(社会運動家)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「千石興太郎」の解説

千石 興太郎
センゴク コウタロウ

大正・昭和期の産業組合指導者 農相;産業組合中央会会頭。



生年
明治7年2月7日(1874年)

没年
昭和25(1950)年8月22日

出生地
東京・日比谷

学歴〔年〕
札幌農学校〔明治28年〕卒

経歴
札幌農学校の助手として植物病理学の研究に従事、菌の新種“ウンシュラ・センゴクアイ”を発見。その後、明治39年松江に農業技師として赴任し、大正8年まで島根県の産業組合の推進に心を注ぐ。9年産業組合(農協の前身)中央会主事、15年主席主事、昭和9年理事、14年第7代会頭となり、“産組の独裁王”といわれる活躍ぶりだった。この間、昭和13年貴院議員。敗戦直後の東久邇内閣では農相に就任。のち公職追放。著書に「産業組合概論」「産業組合の陣営より」「我が農村建設」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千石興太郎」の意味・わかりやすい解説

千石興太郎
せんごくこうたろう
(1874―1950)

日本の農業協同組合設立の先駆けとなった産業組合運動の指導者。東京で士族の長男に生まれる。札幌農学校(北海道大学の前身)を卒業後、島根県農会技師などを経て、1920年(大正9)産業組合中央会主事となる。その後、常務理事、副会頭、会頭を歴任全国購買組合連合会の設立など第二次世界大戦前の産業組合運動を指導し、今日の農協の原形をつくった。

[四宮俊之]

『竹森一男著『千石興太郎』(1971・都市問題調査会)』


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「千石興太郎」の解説

千石興太郎 せんごく-こうたろう

1874-1950 大正-昭和時代の産業組合指導者。
明治7年2月7日生まれ。島根県農会技師などをへて,大正9年産業組合中央会主事,昭和14年同会頭となる。20年東久邇(ひがしくに)内閣の農商相(農相)。貴族院議員農業団体拡充につとめ,農協の基礎をつくった。昭和25年8月22日死去。76歳。東京出身。札幌農学校(現北大)卒。著作に「産業組合概論」など。

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367日誕生日大事典 「千石興太郎」の解説

千石 興太郎 (せんごく こうたろう)

生年月日:1874年2月7日
大正時代;昭和時代の産業組合指導者
1950年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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