千野村(読み)ちのむら

日本歴史地名大系 「千野村」の解説

千野村
ちのむら

[現在地名]塩山市千野

上於曾かみおぞ村の北にあり、しおノ山の北、恵林寺えりんじ山の南東にあたる。おも川の右岸に沿う。青梅おうめ往還が上於曾村から当村の東部を北進して、重川に架かる千野橋を渡ると対岸は上粟生野かみあおの村。地名は茅野にちなむという(甲斐国志)。慶長古高帳では高八四九石余、幕府領。ほかにとび大神社宮神三石余があった。寛永一〇年(一六三三)徳美藩領、元禄一一年(一六九八)幕府領、宝永二年(一七〇五)甲府藩領、享保九年(一七二四)幕府領になり支配代官は石和・川田・石和と交替した。天保三年(一八三二)以降は田安家領(御料私料高別調)。地租改正前の反別である田三九町五反余・畑四六町二反余(市郡村誌)は正徳元年(一七一一)検地の結果と考えられる。


千野村
ちのむら

[現在地名]七尾市千野町・みなみ丘町おかまち

石動せきどう山系の麓から邑知おうち地溝帯に延びる台地上、古府ふるこ村の南に位置する。垣内に東出ひがしで中上出なかかみで大上出おおかみで裏出うらでがある。寛永一二年(一六三五)一二月の免付状(長文書)茅野村とみえる。正保郷帳では千野村とあって、高六三四石余、田方三六町二反余・畑方六町余、免三ツ六歩五厘、新田高二二石余、免二ツ五歩。承応二年(一六五三)の役棟二〇(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(千野町区有文書)の高六七五石、免五ツ、小物成は山役二九七匁・苦竹役一〇目、鳥役三匁(出来)


千野村
ちのむら

[現在地名]大津市千野一―三丁目・苗鹿のうか一―二丁目・雄琴おごと一―二丁目・日吉台ひよしだい一―四丁目

苗鹿村の西にあり、「輿地志略」によれば乳母ちもとも称し、また本千野・今千野の二つに分れるという。元亀元年(一五七〇)九月、浅井長政朝倉義景の軍勢二万八千余騎が滋賀郡に進軍、小塚山を本陣とするが、「乳野」をはじめ苗鹿・雄琴・仰木おうぎ絹川きぬがわ(衣川)・堅田辺りまで布陣し、宇佐山うさやま城の森可成と対峙している(来迎寺要書)。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に千野四八八石とある。寛永石高帳に村名がみえ、高九四七石余のうち膳所藩領一六六石余・山城淀藩領七八一石余。


千野村
ちのむら

[現在地名]足助町千野

足助川流域に沿い、桑田和くわだわ村の一部へ北の方から入込む形になっており、東から南・西にかけて桑田和村、北は婦香利ふこうり村に接する。伊那いな街道が足助川右岸を通り、途中足助川を渡って桑田和村に通じる。集落は街道沿いの谷地形の山麓点在。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android