七尾城跡(読み)ななおじようあと

日本歴史地名大系 「七尾城跡」の解説

七尾城跡
ななおじようあと

[現在地名]七尾市古府・古屋敷・矢田・小池川原・竹町

市街地南方約五キロの石動せきどう山系の急峻な尾根上(標高約三〇〇メートル)を中心に主郭を配置する広大な山城。国指定史跡。戦国大名能登畠山氏の居城で、城域はおおよそ大谷おおたに川と支流蹴落けおとし川に挟まれた範囲であり、頂上の本丸跡付近から派生した丘陵の裾部にまで大小の郭跡が階段状に連なる。伝承されるおもな郭名・地名には、本丸・二の丸・三の丸・西にしの丸・調度ちようど丸・寺屋敷てらやしき長殿ちようどの(現長屋敷)番所ばんしよ跡などがある。本丸とされる最頂部の平坦面(郭)は東西約四〇メートル・南北約五〇メートルの規模をもち、二段(現在は三段)の雄大な石垣で固められ、本丸を中心に梯郭式縄張りを構成する。主たる郭群はまだ発掘調査が行われていないが、調度丸からはかつて天目茶碗を含む陶磁器類が出土しており、昭和四七年(一九七二)には、蹴落川で行われた堰堤建設工事で野面積石垣や小規模な平坦面の一部を検出している(「七尾城跡調査報告」七尾市教育委員会・一九七四年)

大永五年(一五二五)五月二一日、能登に下向していた冷泉為和が七尾城畠山左衛門佐(義総)亭で当座の和歌会に列席している。五月二五日同亭で連歌会が張行され、同二九日の「夏色」と題した和歌会では、為和が「庭ひろみ苔のみとりハかたよりてあつき日影に白きまさこち」と、義総亭にあった庭園を詠んでいる。同年七月二三日に能登滞在中の為和の父冷泉為広が城内で没しており、天文一三年(一五四四)九月九日には義総亭で「月前菊花」の風雅な和歌会が催されていた(今川為和集)

京都東福寺前住持の彭叔守仙が義総の重臣温井総貞の求めによって天文一三年三月に撰した漢詩文「独楽亭記」によれば、城内にあたる七尾山の大石谷中腹に総貞の私邸があり、その片隅に小亭を築いて独楽亭と命名、雅友が来遊して風流を楽しんでいた。山麓には約一里にわたって町並が続き、市場町の活況がみなぎっており、城内から北西に望む七尾湾岸の浦々と能登島(現能登島町)の景勝、南西方の眼下に広がる邑知おうち地溝帯北東域の水田風景、城内と石動山を結ぶ尾根筋道の繁多な往来が描かれている(同書)。山麓の城下町七尾は能登の流通の拠点であること、奥能登を結ぶ七尾湾ルートと地溝帯の穀倉地帯が本丸から日常的に監視できること、能登最大の宗教勢力の石動山天平てんぴよう(現鹿島町)と至近の位置でつながっていたことなどから、七尾城が天然の要害として軍事的機能を備えていた役割に加え、重要な政治支配機能を担いうる環境に立地していたことが知られる。


七尾城跡
ななおじようあと

[現在地名]益田市七尾町

中世益田氏の居城跡。益田城ともいう。益田川が平野に広がる最後の挟部に張出した長い尾根に築かれる。城は南北に延びるおもに三つの尾根上に築かれ、最も高い本丸を中心に、二の段にのだん太鼓の段たいこのだん千畳敷せんじようじきなど大小四〇あまりの曲輪があり、要所には堀切や土塁・枡形虎口・畝状空堀群などを設けて防御を固めている。大手は二つの尾根に挟まれた、益田川に面する北向きの谷間と考えられ、これを登り切った厩の段くるわのだん近くに馬釣うまつる井とよばれる石積みの井戸跡が残る。西側の尾根先端には通称尾崎おざき丸とよばれる出丸があり、その真下と思われる大手口は延元元年(一三三六)南朝方三隅軍の攻撃を受けた。同年七月二六日の三隅兼茂軍忠状(閥閲録)によると、三隅兼知に率いられた三隅軍は、益田兼行・同舎弟三郎・乙吉十郎以下数千騎の軍勢が立籠る益田城の「北尾崎木戸」を攻め、益田方の部将大森代大進房の首を討取ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「七尾城跡」の解説

ななおじょうあと【七尾城跡】


石川県七尾市古城町にある山城跡。七尾湾を望む石動(せきどう)山脈北端の、標高300mほどの尾根上に立地する。尾根から枝分かれする大小の尾根にも無数の砦(とりで)を配した大規模な山城で、長屋敷・本丸・二の丸・三の丸・調度丸・遊佐(ゆさ)屋敷・桜馬場が連なっている。能登畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶(みつのり)が、正長年間(1428~29年)に築いたというが、当時の七尾城は砦程度の規模で、以後次第に拡張され、約150年間にわたって領国支配の本拠となり、5代当主である畠山慶致(よしむね)のころには守護所も七尾城へと移った。1545年(天文14)に家督を継いだ8代当主義続(よしつぐ)のころには家臣団による権力争いが頻発したが、9代義綱のころまでに城は増築され、最大の縄張りとなったといわれる。1544年(天文13)の記録によれば、城山山麓に「千門万戸」が1里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」と称されたと記されるほどだった。しかし、上洛をめざす越後の上杉謙信が、1576年(天正4)に能登に侵攻し、包囲された七尾城は1年にわたって持ちこたえたが、重臣の分裂もあって落城した。越中国と能登国をつなぐ要所にある七尾城は、のちに織田信長配下の城代として前田利家が入るが、すでに山城の時代ではなく、利家は拠点を小丸山(こまるやま)城に移したため、1589年(天正17)に廃城となった。低い石垣を5段に積み重ねた本丸の石垣をはじめ、各曲輪の石垣のほとんどが現存し、山城の歴史上重要な遺跡として、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。麓には七尾城史資料館がある。JR七尾線七尾駅から市内巡回バス「古屋敷町」下車、本丸まで徒歩約1時間。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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