日本歴史地名大系 「七尾城跡」の解説
七尾城跡
ななおじようあと
市街地南方約五キロの
大永五年(一五二五)五月二一日、能登に下向していた冷泉為和が七尾城畠山左衛門佐(義総)亭で当座の和歌会に列席している。五月二五日同亭で連歌会が張行され、同二九日の「夏色」と題した和歌会では、為和が「庭ひろみ苔のみとりハかたよりてあつき日影に白きまさこち」と、義総亭にあった庭園を詠んでいる。同年七月二三日に能登滞在中の為和の父冷泉為広が城内で没しており、天文一三年(一五四四)九月九日には義総亭で「月前菊花」の風雅な和歌会が催されていた(今川為和集)。
京都東福寺前住持の彭叔守仙が義総の重臣温井総貞の求めによって天文一三年三月に撰した漢詩文「独楽亭記」によれば、城内にあたる七尾山の大石谷中腹に総貞の私邸があり、その片隅に小亭を築いて独楽亭と命名、雅友が来遊して風流を楽しんでいた。山麓には約一里にわたって町並が続き、市場町の活況がみなぎっており、城内から北西に望む七尾湾岸の浦々と能登島(現能登島町)の景勝、南西方の眼下に広がる
七尾城跡
ななおじようあと
中世益田氏の居城跡。益田城ともいう。益田川が平野に広がる最後の挟部に張出した長い尾根に築かれる。城は南北に延びるおもに三つの尾根上に築かれ、最も高い本丸を中心に、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報