及川 平治
オイカワ ヘイジ
大正期の教育学者,新教育運動指導者 明石女子師範附属小学校主事;仙台市教育研究所所長。
- 生年
- 明治8年3月28日(1875年)
- 没年
- 昭和14(1939)年1月1日
- 出生地
- 宮城県栗原郡若柳村(現・若柳町)
- 学歴〔年〕
- 宮城県尋常師範〔明治30年〕卒
- 経歴
- 宮城県の農家の二男に生まれる。代用教員を経て明治30年宮城師範卒業、同校附属小訓導の後、26歳の若さで小学校長に抜擢されるが、35年向学心から辞職して上京。東京明徳小学校訓導の傍ら教育学、英独語を独学、38年検定試験に合格、師範学校教員免許状(教育科)を取得。40年兵庫県明石女子師範附属小学校主事となり昭和11年まで在任した。その間、子供の個性に応じた教育の個別化、自我の必要性を説き、分団式教育を標榜、明治末から大正期にかけ新教育運動のリーダーとなった。大正14年文部省派遣で欧米に留学、20世紀最大の教育学者と言われるデューイに会い、コロンビア大学で教育測定学を学んで帰国。昭和期に入ってカリキュラム研究に打ち込んだ。退職後は仙台市教育研究所長を務めた。著書に「分団式動的教育法」「分団式各科動的教育法」「動的教育論」「習慣態度の試行的測定目標」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
及川平治
おいかわへいじ
(1875―1939)
教育者、大正自由教育の実践者。明治8年3月18日宮城県の農家に生まれる。1897年(明治30)宮城県尋常師範学校卒業後、宮城県と東京府において小学校教員を務め、文部省中等教育試験に合格。1907年(明治40)兵庫県明石(あかし)女子師範学校附属小学校主事、以後1936年(昭和11)の退職まで約30年間その地位にあった。彼の主唱する分団式動的教育を実践した明石附属小は、手塚岸衛(きしえ)(1880―1936)の千葉師範附属小、木下竹次(1872―1946)の奈良女高師附属小などと並んで、自由教育の中心地となり全国の注目を集めた。退職後は仙台市教育研究所所長を務め、カリキュラム研究に没頭。主著に、『分団式動的教育法』(1912)、『分団式各科動的教育法』(1915)、『動的教育学要綱』(1920)がある。昭和14年1月1日没。
[小股憲明]
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及川平治 (おいかわへいじ)
生没年:1875-1939(明治8-昭和14)
大正・昭和初期の新教育運動の指導者。宮城県出身。1897年宮城県尋常師範学校卒業。1907-36年,兵庫県明石女子師範学校の付属小学校主事として活躍。主著《分団式動的教育法》(1912),《分団式動的各科教育法》(1915)は,それまでの画一的な詰込み教授を批判し,児童中心主義の理論にもとづく教育のあり方を実践的に示したもので,当時の教育界に大きな影響力をおよぼした。また,1921年の夏に開催されたいわゆる〈八大教育主張講演会〉でも〈動的教育論〉を講じた。その理論的支柱となったのはJ.デューイらのプラグマティズムであった。30年代にはカリキュラム改造を唱え,晩年には仙台市教育研究所長として,戦後の教育改革にとっての遺産を蓄積した。
執筆者:中野 光
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
及川平治 おいかわ-へいじ
1875-1939 明治-昭和時代前期の教育者。
明治8年3月28日生まれ。40年から30年間,兵庫県明石女子師範付属小学校の主事。大正10年こどもの自律性を尊重する分団式動的教育法を提唱した。昭和11年仙台市教育研究所長。昭和14年1月1日死去。65歳。宮城県出身。宮城県尋常師範卒。著作に「動的教育論」など。
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及川 平治 (おいかわ へいじ)
生年月日:1875年3月28日
大正時代の教育者
1939年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報