古新町(読み)ふるしんまち

日本歴史地名大系 「古新町」の解説

古新町
ふるしんまち

[現在地名]新湊市港町みなとまち

放生津ほうじようづ町の南側を流れるうち川の湊口の西、長徳寺ちようとくじ村の東に位置。浜往来が通る。南は西内川、北は富山湾に面し砂浜が続く。慶安二年(一六四九)の放生津新町の町立て以前は浜新はましん町・西の浜にしのはま町とよばれていたが、寛文(一六六一―七三)頃から古新町と称されるようになったという(新湊市史)。町の北東、湊口に面して澗改所が置かれ、住吉社(現観音堂)がその南に鎮座(嘉永六年「放生津領分間絵図」新湊市教育委員会蔵)。湊口は永禄(一五五八―七〇)頃寺嶋職定が極性ごくしよう(現富山市)衆三人に宛てて発給した過書札(極性寺文書)にみえる小渡とされている。ここに湊橋が架けられたのは文政四年(一八二一)で、鉤の手に曲って古新町通に出た。


古新町
ふるじんまち

[現在地名]高松市古新町・兵庫町ひようごまち

丸亀まるがめ町の一丁目と二丁目の境から西へ、一番いちばん武家屋敷に突当る東西の通りに面した両側町。北は兵庫町、南は外磨屋そととぎや町。南側西端は外磨屋町にまたがる武家屋敷で、藩政時代を通じて大久保氏(家老、四〇〇石)の居宅であったが、その東側を持筒もちづつ町といった時代があった(天明年間城下図)町名は享保年間(一七一六―三六)の城下図にみえ、生駒氏時代は単にしん町とよんでいた(生駒氏時代屋敷割図)松平頼重の時になって城下町が発展し、南部に今新いまじん町や南新みなみしん町ができたので、これまでの新町を古新町というようになったと考えられる。高松城下図屏風では、通りに面して両側で三〇余軒の町屋が確認される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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