台湾抗日運動(読み)たいわんこうにちうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾抗日運動」の意味・わかりやすい解説

台湾抗日運動
たいわんこうにちうんどう

日本統治下における台湾住民の、植民地支配に対する抵抗運動の総称。通常、人口の大部分を占める漢族系住民による闘争をさす。武力闘争の形態をとった前期(1895~1915)と、近代的な政治、社会、文化運動の形態をとった後期(第一次世界大戦後~1930年代初め)とに大きく分けられる。

[若林正丈]

前期

1895年(明治28)5月下関(しものせき)条約による台湾割譲に反対して、台湾の有力者は、時の台湾巡撫(じゅんぶ)を擁して「台湾民主国」を建て、列強干渉を呼び込み割譲を阻止しようと図った。これは失敗したが、南下する日本軍に対し各地の民軍が激しく抵抗し、日本側は近衛(このえ)師団のほか1個師団半を増派して、10月ようやく鎮圧した。しかし、同年末より、侵攻時の日本軍の無差別殺傷などの非行への反発から各地の土着勢力によるゲリラ的抵抗が始まった。この抵抗は、大陸からの支援はなく孤立したまま、後藤新平の「土匪(どひ)招降策」「匪徒刑罰令」と、整備された警察力によって最終的には各個撃破されてしまった。しかし、一時日本本国内に台湾売却論を生むほどに激しいエネルギーを示し、1902年(明治35)まで闘われた。この年から、ようやく漢族居住地域における日本の支配は確立したが、その後も開発政策強行に伴い、07年から15年までしばしば在来の信仰や辛亥(しんがい)革命の影響を受けた反日蜂起(ほうき)、ないしその企図が起こった。そのうち最後で最大の余清芳(よせいほう)による反日蜂起は、南部タパニー村における住民虐殺と大量の死刑判決という過剰弾圧によって、漢族系住民に根深い反感と恐怖を抱かせた。

[若林正丈]

後期

一時逼塞(ひっそく)させられていた抗日運動は、第一次世界大戦後のデモクラシー民族自決の風潮のなかで、東京留学生と林献堂(りんけんどう)ら開明的資産家が結び付くことによって再生した。1921年(大正10)1月総督専制に反対し自治を求める運動として、帝国議会に対する台湾議会設置請願運動が始められ、10月台湾内に台湾文化協会が設立され、民衆に対し活発な啓蒙(けいもう)運動を開始するとともに、議会設置運動の実質的推進機関となった。これより先、蔡培火(さいばいか)ら留学生は林らの援助で20年7月『台湾青年』を創刊、以後その後身の『台湾』『台湾民報』が20年代の抗日運動の機関誌・紙として成長していった。20年代中ごろになると土地問題を契機として文化協会の影響下に農民運動が起こり、26年台湾農民組合が成立した。同時に、日本の社会主義運動や中国国民革命の影響を受けて、運動指導者内に思想的対立が深刻化し、27年(昭和2)文化協会が分裂、左派が指導権を握った。また島外では、コミンテルンの影響下に謝雪紅らが上海(シャンハイ)で台湾共産党を結成した(1928.4)。一方、文化協会を退出した中間派と右派は、台湾民衆党を結成(1927.7)、中間派の孫文主義者、蒋渭水(しょういすい)ら(民衆党主流派)は労働運動に乗り出し、28年2月台湾工友総連盟を結成した。右派はこれを嫌い、30年8月台湾地方自治連盟を結成、統治方針の枠内での権利拡大の方向を鮮明にして抗日運動から大きく後退した。一方、台湾共産党はまもなく文化協会、農民組合を影響下に置いたものの、その存在を察知した当局の厳しいチェックにあって組織を拡大できず、31年ちょうど満州事変に前後する時期の弾圧により、文化協会、農民組合とともに崩壊し、以後組織的抗日運動は跡を絶った。しかし、文学作品などによる消極的抵抗は続いた。

[若林正丈]

『許世楷著『日本統治下の台湾』(1972・東京大学出版会)』『若林正丈著『台湾抗日運動史研究』(1983・研文出版)』

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