日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾映画」の意味・わかりやすい解説
台湾映画
たいわんえいが
台湾は1945年まで日本の植民地統治下にあり、この時期には商業的な映画製作はごくわずかしか行われていない。日本の支配が終わってから、日本で映画の経験のある台湾人の手で台湾語映画がつくられるようになる。1950年に中国大陸で共産党との内戦に敗れた国民党政府が台湾に逃れてきて、教育宣伝政策の重要な一環として国民党立の撮影所をつくり、北京(ペキン)語による本格的な映画製作を推し進める。1962年の日本の大映の『秦・始皇帝』は台湾との提携でつくられ、台湾映画界の技術的な土台づくりに貢献した。
1960年代、国策による健康写実路線が強力に進められた。李行(リーシン)(1930―2021)の『鴨(あひる)を飼う女』(1964)がその代表作である。元気に働いて明日に希望をもとう、とうたいあげる大衆的な映画である。胡金銓(キン・フー、1931―1997)の『龍門の宿』(1967)は武侠(ぶきょう)映画の流行をもたらした。
台湾映画が国際的に注目されるようになるのは1980年代になってからである。それまで本土の中国共産党と厳しく対立するために台湾では厳しい思想統制が行われていたのだが、経済的成功とともに徐々に民主化が進められた。そこでそれまで自由に自己主張をすることができなかった本省人(数代前から台湾にいた漢民族)の心が台湾語でも表現できるようになり、外省人(戦後に国民党とともにやってきた本土出身者)との微妙な矛盾対立の関係も率直に表現されるようになったからである。
本省人が台湾文化の独自性を主張した郷土文学という小説流派があるが、その代表的な作家である黄春明(ホアンチュンミン)(1939― )の小説の映画化が一つの突破口となった。侯孝賢(ホウシャオシェン)、萬仁(ワンレン)(1950― )、曽壮祥(ゾンジュアンシャン)(1947― )の『坊やの人形』(1983)、王童(ワントン)(1943― )の『海を見つめる日』(1984)など、台湾の経済成長以前の庶民のけなげな生活を温かい目で見つめた秀作であった。
侯孝賢は、引き続き『冬々(トントン)の夏休み』(1984)、『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989)などの作品で国際的にも一作ごとに注目される監督となった。王童は『バナナ・パラダイス』(1989)、『無言の丘』(1992)、『赤い柿』(1996)で台湾の苦難の現代史を描き続けた。楊徳昌(エドワード・ヤン)は民族的というよりは世界共通の現代的な不安や孤独を追求する点でアジアを代表する作家の一人である。『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991)、『ヤンヤン――夏の想い出』(2000)などがとくに重要な作品である。同じように現代的な人間関係の不安を描く作家として国際的な評価を得た一人に蔡明亮(ツァイミンリャン)(1957― )がいる。『愛情萬歳(ばんざい)』(1994)や『河』(1996)が代表作である。李安(アン・リー、1954― )はニューヨークの中国人たちを描いた『推手』(1991)でデビューしたのち、社会性もあり商業性も豊かな作品を相次いでつくって、ついにはハリウッドでアメリカ映画をつくるようになった。
1990年代以降、台湾映画は商業的には厳しい状況となり、政府の保護政策でかろうじて製作が続いている。
[佐藤忠男]
『田村志津枝著『現代アジア叢書9 スクリーンの向うに見える台湾――台湾ニューシネマ試論』(1989・田畑書店)』▽『門間貴志著『アジア映画にみる日本1 中国・香港・台湾編』(1995・社会評論社)』▽『佐藤忠男編著『アジア映画小事典』(1995・三一書房)』▽『戸張東夫著『スクリーンの中の中国・台湾・香港』(1996・丸善)』▽『『台湾映画祭』(1997・現代演劇協会)』▽『川瀬健一著『台湾映画への招待――一夜にして中国人になった多桑(父さん)』(1998・東洋思想研究所)』▽『田村志津枝著『はじめに映画があった――植民地台湾と日本』(2000・中央公論新社)』