改訂新版 世界大百科事典 「ホンコン」の意味・わかりやすい解説
ホンコン (香港)
Hongkong
Xiāng gǎng
中国本土南東部,広東省珠江の河口東側にある特別行政区で,経済特区の深圳に隣接する。イギリスの直轄植民地(正式にはBritish Crown Colony of Hong Kongと呼ばれた)であったが,1997年7月1日に中国に返還された。もと新安県に属し,香港島と対岸の九竜半島およびその他の島々からなる。うち香港島と九竜半島先端の九竜市がイギリスの領土で,九竜市の後背地である新界(New Territories)および大濠島(蘭頭島)など大小235の付属島は期限が1997年6月までの中国からの租借地であった。香港の全面積は1076.3km2で,新界が984.7km2と大部分を占めるが,そのほとんどが不毛の山地で,面積76km2の香港島とわずか9.6km2の九竜に市街地が密集している。人口681万(2005)。なおホンコンの呼称は香港の広東語音に由来する。
自然
地形的には,香港島と九竜半島の南東部は花コウ岩や古い火山性の斑岩の風化物でおおわれ,著しく褶曲し浸食も進んでいる。香港島は植生が乏しいこともあって,まったく岩山の景観を呈する。みごとに建ち並んだ高層ビル群は,地震のないことを前提に,この固い岩盤の上に建てられている。半島北部の中国との境界近くでは,土地は平たんで,境界である深圳(しんせん)河をはじめいく筋かの河川が流れる。香港で川が見られるのはこの地方だけである。急増する人口と工業化の進展のため,水不足は香港にとって深刻な問題である。山間の谷は水の確保のため,雨水を貯える貯水池に利用され,中国本土から水を供給する水道管が建設されている。近年,深圳経済特区の建設に連動する形で,ここに工業地区や高層アパート群の建設が進められている。全体として標高300mをこえることはほとんどなく,半島の最高峰は大帽山で958mである。また香港島の最高峰は553mのビクトリア・ピークである。沈降地形で屈曲に富む半島と230あまりの点在する島々からなり,水深と底質に恵まれているため,いたるところが良港たる条件を備えている。とくに南シナ海(南海)の風波から守られる九竜・香港島間の水道が世界屈指の良港となっている。香港は北回帰線のすぐ南にあり南シナ海に面するため,亜熱帯モンスーン気候である。年平均気温は22.6℃,年較差は10~12℃,年平均降水量は2265mmで,5~9月に年間の80%が集中し,台風・暴風雨による異常降雨も多い。花コウ岩地帯における地すべりの災害や寡雨による異常渇水など,激しい気象変化の影響が大きい。
歴史
香港への漢人の進出は,1955年に九竜で発見された後漢代の墳墓などから,漢代にはすでになされていたと考えられる。香港の名は当時越人により九竜で香木が栽培されており,その積出港が現在の香港仔であったことから,移住した漢人により香港と呼ばれるようになったという。香港島は海賊にとって絶好の根拠地の一つで,香港仔と筲箕(しようき)湾の2ヵ所は元代には海賊の巣窟として中央政府にも知られていた。
イギリスの初代貿易監督官W.J.ネーピアは,中国進出に際し,1834年(道光14)すでに香港が珠江流域はもちろん,華南沿岸をも制しうる絶好の位置にあり,また天然の良港であることに目をつけ,本国に占領を建議した。40年6月,イギリス艦隊が珠江の河口を封鎖して開始されたアヘン戦争で,第2代貿易監督官チャールズ・エリオットは41年5月に香港の割譲などを約して講和した。しかしエリオットは方針を軟弱として更迭され,第3代貿易監督官に任命されたH.ポティンジャーは,広州の休戦をそのままにして香港島を武力占拠した上で戦闘を再開した。42年8月に調印された南京条約で,香港は〈船舶修理のため〉割譲され,直轄植民地としてポティンジャーが初代総督に就任した。一時マラリアの流行や台風の襲来により,発展性のない土地としてイギリス議会で放棄の論争があった。当時,香港島には鯉魚門に近い筲箕湾と島の南側の香港仔,赤桂に小集落が散在するのみであった。開発の中心はビクトリア・シティと呼ばれるセントラル地区で,海岸地帯に政庁をはじめ諸官庁,軍施設,諸外国公館,金融機関,商社の建物がしだいに建ち並んだ。しかし初期の富の蓄積は合法的な貿易活動ではなく,インド産アヘンの密貿易と誘拐同然のクーリー(苦力)貿易という掠奪的な手段で行われた。また58年(咸豊8)から60年にかけて清国とイギリス・フランス連合軍との間で起きたアロー戦争の後,60年の北京条約で九竜を割譲させ,イギリスの支配領域は中国本土に伸張した(第2次アヘン戦争)。
さらに98年(光緒24)には,香港植民地防御および保護を口実に新界および付属島嶼を99ヵ年租借し,翌99年武力占領した。九竜の割譲により,ビクトリア湾はイギリス領にはさまれた内港となり,蓄積された富が産業に投資され,造船業やドック業,倉庫業,銀行などが設立された。一時中国金融を左右し,現在もイギリスのアジア権益の代表である香港上海銀行も1864年(同治3)に設立された。1860年から約30年間は,中国貿易においてイギリス優位の時代が続き,香港の経済も順調に発展した。また中国人の間から貿易の仲介者として買辦階級も成長してきた。20世紀に入ると,新参日本も加えた帝国主義列強の権益奪取闘争はますます激しくなり,イギリスの中国貿易に対する優位は脅かされた。19世紀末まで香港は中国の外国貿易の40%を占めていたが,上海や大連の発展により,1902年から下降線をたどり,13年には30%以下に下がった。反英ボイコットが起こった1926年にはわずか11%に低下した。ここにおいてイギリスは従来の貿易中心から対中国投資へ方針を転換した。投資はまず香港に対して行われ,1889年の香港電灯,94年の太古精糖をはじめ,現在も香港の代表的企業として残っている主要会社は,19世紀の終りから20世紀の初頭にかけて続々と設立された。広九鉄道(広東~九竜)も1905年に開通した。
20世紀初めの20年間に,香港は自由貿易港としての関税特権を活用して,世界各国と中継貿易を活発に行い,金融の一大中心地としての地位を築いた。また中国本土より流入する大量の低廉な労働力に魅力を感じたイギリスや日本などの資本進出のため,めざましい発展をとげた。1866年には11万5000であった人口は,1931年には85万にまで増加した。しかし急増した港湾労働者や工場労働者・都市貧民に対して,1911年の辛亥革命以来の中国民族主義と共産主義思想が浸透し,反植民地・反帝国主義運動が活発化しストライキが続発した。22年には海員ストライキ,25年から26年にかけてゼネストが行われた。国共合作の広東政権の指導のもとに行われた省港ストライキ(大罷工)と呼ばれるゼネストは1年4ヵ月続き,香港の工業生産や港湾機能など全機能が麻痺状態に陥った。ゼネスト後の香港は関税自主権の返還など,イギリス本国の政策転換による対中国貿易の慢性的減少により不景気に悩まされた。その後37年に日中戦争の開始により上海の機能が停止し,香港が外国の対中国援助の中心となり,軍需物資のみならず重慶政府に対する巨額の借款が香港上海銀行を通じて行われるなど,異常な活況期を迎えた。しかし38年10月に広東省が日本軍に占領されると活況も終わった。この時期,香港はまた爆発的な難民の波にさらされ,太平洋戦争開始までに約75万人が殺到し,香港の人口は一挙に175万となった。ひどいときには,約50万人が路上で眠ったという。41年12月,太平洋戦争開始と同時に日本軍の攻撃を受け28日間で陥落し,以後3年8ヵ月の間日本軍の占領下に置かれた。この間,日本軍の強制的な人口疎散政策や食糧不足・物価高などで,人口はわずか60万に減少した。
日本敗戦後,香港はただちにイギリス軍政下に置かれ,46年5月再び民政に復帰した。戦後,香港の復興は驚異的で,47年末には人口は180万と大戦以前の人口以上に回復した。さらに50年までに国共の内戦を逃れて,中国各地より移住者や難民の波が押し寄せ,人口は236万に急増した。香港政庁はこれらの人々の生活を安定させるため,地元産業の育成に努め,移住した資本家や経営者,豊富で低廉な労働力によって,この時期に今日の繁栄の基礎が築かれた。地元産業の発展は香港の性格を〈中継貿易港〉から〈中継加工貿易都市〉へと一変させた。58年,中華人民共和国とイギリスとの間に,香港の帰属をめぐって緊張が生じたが,その後両国間の関係に改善が図られた。66年中国に文化大革命が起こると,香港でもそれに呼応して左派系中国人を中心にデモやストライキが組織され,66年から67年にかけて香港政庁は深刻な危機に直面した。80年代に入って,新界の租借期間が97年6月までと目前に迫ってきたが,外貨の約40%を香港から得る中国は,現代化にとって香港の今の経済力は不可欠であり,また〈台湾統一〉とのからみから〈港人治港〉政策など現状維持の方針を打ち出していた。しかし,巨大な中国市場を目ざして香港へ活発な投資がなされる一方,将来を危ぶんで華僑資本の流出が続くなど,香港の置かれた立場は非常に不安定な様相を示していた。1982年以降,イギリス・中国両政府の間で香港返還をめぐる交渉が開始され,84年9月,両国は合意に達した。仮調印された共同宣言(本調印は84年12月)にもとづいて,97年7月,香港島,九竜,新界を含む全香港の主権を中国政府は回復し,155年にわたるイギリスの支配は終焉した。返還後の香港は〈一国両制(一国家二制度)〉によって経済的繁栄を維持するため,50年間は現行の制度を基本的に変更しない。
住民
全住民のうち中国系住民が97%を占め,イギリス人は約3万にすぎない。中国系住民では広東出身者が他を圧して多く80%を占め(うち広東人55%,客家人20%,潮州人15%),次いで福建出身者と海外に在住していた華人が多い。人口の約22%が香港島に,34%が九竜市街地に,44%が新界に居住している。九竜の市街地は新しく開発された地区を合わせると人口200万を超え,新界ではニュータウンに人口が集中している。他に水上生活者の蛋民(たんみん)や福佬(ホクロ)と呼ばれる漂海民が約5万人いて,入江や海岸のサンパン船で暮らしている。新界の広東省との境界に近い水田地帯には多くの村落がある。公用語は標準中国語と英語であるが,広東語が一般に広く使われている。
政治
1984年9月に調印された中英合意文書にもとづいて,中央政府が直轄する香港特別行政区が返還と同時に設置され,初代行政長官には実業家の董建華が選出された。香港特別行政区基本法は,返還後の香港が外交・軍事を除いて経済,貿易,金融,通信,観光,体育などの分野で〈中国香港〉の名で独自に国際機構や世界各国・地域と関係を維持し,協定を締結することを認めている。〈一国家二制度〉による香港の50年間の現状維持と〈香港人による香港統治〉が今後とも遵守されるかは,返還前の議会にあたる立法評議会が無効とされ,新たに中国主導の臨時立法会が設立されるなど予断を許さない状況である。また返還後,直ちに大部隊の人民解放軍が進駐したことも将来の香港の不安材料である。
経済
自由港の利点を十二分に活かして中継貿易で発展してきた香港は,1950年代から加工貿易港へ転換し急速な工業化が行われた。中国本土からの資本家や大量の労働力の流入,原材料輸入の有利性,イギリス連邦特恵制の活用や東南アジア華僑の資本力と商業網の利用などが優れた条件となり,さらに香港政庁が工業立地,労働,技術と生産性向上などの政策を積極的に指導・促進したことにより,まず繊維やプラスチック造花など雑貨生産に特化して発展した。60年代後半からは外国からの投資や新技術の導入に伴う地場産業の努力により,軽工業を主とした産業構造が電子,電気機器精密機器,玩具など多角化の方向に進んだ。80年代後半,香港の企業は広東省を中心に中国国内に積極的に投資して数多くの工場を建設し,推計で数百万人を雇用した。その結果,香港を経由する中国製品の割合は大きく拡大した。86年の香港経由の再輸出額は約123億香港ドル,地場輸出額は154億香港ドルだったのが,91年にはそれぞれ535億香港ドル,231億香港ドルになり,香港の中継機能の重要性が再度高まった。再輸出のうち中国原産が約40%を占めているが,その大部分が香港企業による広東省での生産である。経済面での中国の影響力は強まっており,中国の香港への累積投資額は94年半ばで205億ドルに達している。また香港の対中国直接投資は1986-94年の累計で1902億ドルに達した。
1994年のGNPは1269億ドル(中国は6302億ドル),1人当りのGNPは2万1650ドル(中国は530ドル)である。
香港はロンドン,ニューヨーク,東京に並ぶアジア最大の国際金融センターで,香港ドルの発券業務は香港上海銀行とスタンダード・チャータード銀行,中国銀行が行っている。1986年4月に以前の四つの取引所を統合した香港証券取引所の規模は世界有数で,91年3月の会員数は650社に達し,世界の株価への影響力を有している。また観光も重要な産業で,93年には894万人が訪れ,その観光収入は76億ドルに達する。94年の香港の貿易額は,輸出1514億ドル,輸入1618億ドルで輸出入ともに中国との比重が大きくなっている。1980年代には香港資本は深圳経済特区に活発に投資を行い,また特区に隣接した新界北部に大規模な工業地区の建設を進めた。さらに80年代後半には豊富で低賃金の労働力を求めて珠江デルタに積極的に投資し,90年代には広東省内陸部にも投資を進めており,経済面での広東省との一体化が進んでいる。
交通
香港はシンガポールと並ぶ航空交通・海運の要衝で,啓徳空港の乗降客数は成田空港を上回りアジア第1位で,コンテナー取扱量ではシンガポールと世界1位,2位を争っている。またパンク寸前の空港の処理能力を拡張するため蘭頭島北部に新空港の建設が進められ,またコンテナーターミナルの拡張も行われている。香港と広州など広東省各地を結ぶ高速道路の建設が進み,北京と九竜を結ぶ京九鉄道も1997年5月に正式開通した。
執筆者:林 和生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報