翻訳|melodrama
英語のmelodramaという言葉は,フランス語mélodrame(メロドラム)の借入であり,J.J.ルソーが自作の《ピグマリオン》(1775)のなかで,人物の出入りに〈音楽の伴奏〉が入る形式の劇をそう呼んだのが初めとされる(なおmélo-はギリシア語で〈歌〉を意味するmelosにさかのぼることができる)。つまり,この言葉はもともと劇の内容よりも,〈音楽入り〉という劇形式を指していたわけであったが,以下に見るように時代の変遷のなかで,しだいに劇形式よりも劇内容が,この言葉の意味を規定するようになっていく。
その後のフランスでは19世紀の初頭までに,ブールバールで流行したパントマイムとオペラ・コミックが混合していく過程で,メロドラマ(以下,フランスの場合もこの言い方を用いる)の台詞代りに使われていた音楽の役割が後退して,劇効果を高める補助手段としてのみ存在するようになり,一方のパントマイムには大がかりなスペクタクルが取って代わる。このような変化は,劇場で〈絵画的な〉場所を見たがるようになった観客の嗜好によるものであった。古典劇のほとんどでは,題名が劇中の主人公を表し,場所は一つに限定されているのに対して,メロドラマでは地方色を表すさまざまな装置の変化が特徴的である。こうして19世紀初頭,代表的なメロドラマ作者ギルベール・ド・ピクセレクールが現れるに及んで,メロドラマは,パリのタンプル大通りに密集する劇場で全盛を極め,以下に述べるようなその演目の内容から,タンプル大通りには〈犯罪大通りBoulevard du Crime〉という別名も生まれた。
メロドラマの内容としては,当時流行したゴシック・ロマンスや怪奇小説の影響が大きい(フランスではこれらの小説は〈ロマン・ノアール〉(暗黒小説)と呼ばれた)。A.ラドクリフの《ユドルフォ城の謎》やM.G.ルイスの《修道僧》などの小説は当時ヨーロッパ中で愛読されたが,このような小説の題材を劇化することで大衆を引きつけたことが,メロドラマが爆発的に流行したことの基盤となっていた。その中には高僧が悪魔に誘惑されたり,破戒僧が処女を幽閉するなどの教会制度をめぐる主題,亡霊,妖怪などの超自然的要素,森の盗賊,誘拐,略奪などの犯罪的要素が含まれており,また,恐怖心を煽るプロセスの後,最後は必ず勧善懲悪に終わる手法などの特徴が集中してあらわれている。ピクセレクールの代表作《ビクトル,または森の子》(1798),《ケリナ,または神秘の子》(1800)もフランスの暗黒小説の作家デュクレ・デュミニルの作品の翻案である。大革命を経て,〈血と恐怖〉とに慣れ切っていた観客は,グロテスクでショッキングな題材を好み,亡霊などの超自然が受けたのもそのためであったろうと思われる。また,一方では強固な道徳性,すなわち善玉・悪玉の対立が際立っており,勧善懲悪の掟が実現するという点で,大衆の不安と不満とは癒されたのであった。
さらに,メロドラマの成功には,舞台装置や舞台衣裳の豪華さもものをいった。19世紀初頭の劇場は,いずれもこぞって幻想的な大がかりな装置を飾り,背景画家や道具方は俳優同様重要な存在になっていく。ピクセレクールの代表作《バビロンの廃墟》のティグリス川を背景にした巨大な王宮のセットは,ジャン・ピエール・アローJean-Pierre Alauxの作で評判となったし,あるいはベスビアス火山の爆発を表現したJ.ダゲール(のちの写真のダゲレオタイプの発明者)などの装置家による視覚的要素での貢献は,地方色・時代色を尊重するのちのロマン派演劇の傾向をも促進したのであった。
今日では,メロドラマのさし示す意味合いはさらに変容し,一般に波乱に富む男女の通俗的恋愛劇をさすようになっている。そこでは,変容しつつも何らかの形で受け継がれている〈筋の波乱万丈〉〈場所の変化〉〈正義が必ず勝利を収めるハッピーエンド〉というかつてのメロドラマの基本三要素が,やはり依然として大いに大衆に受け入れられ喜ばれるものとなっており,今日もメロドラマは,劇場だけではなく映画やテレビにおいても盛んに行われている。
執筆者:利光 哲夫
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ギリシア語のメロスmelos(歌)とドラマdrama(劇)の合成語で、演劇の一ジャンルをさすが、時代や地域によって多様に使われてきた。18世紀後半からジャンルとして力をもち始めたが、当初ドイツではオペラのなかで音楽の伴奏がつく台詞(せりふ)(歌わない)の部分を、フランスでは登場人物が沈黙したときにその感情を音楽で表現する演劇をさしていた。しかしメロドラマが隆盛をみるようになったのは、ドイツ出身の劇作家アウグスト・コッツェブーがウィーンやペテルブルグで戯曲を次々に発表し始めてからである。彼の代表作『人間嫌いと後悔』(1789)ほかがイギリスやアメリカでも翻訳・上演され、イギリス、アメリカにおけるメロドラマ・ブームに火がつき、フランスにも劇作家ギルベール・ド・ピクセクールが現れると、彼の『ケリナ、または謎(なぞ)の子』(1800)ほかがやはりイギリス、アメリカで翻案され、メロドラマの流行に油を注いだ。
メロドラマは誇張されたドラマであり、ヒーローとヒロインの前途に迫害する敵(かたき)役もしくは越えがたい障害が現れるというパターンが多く、善玉と悪玉とははっきり分かれている。またドラマ全体としては道徳的、感傷的、楽観的で、最後はハッピー・エンドになる。さらに、劇的効果を強めるための音楽の使用、スペクタクル性を高めるための大仕掛けの舞台装置など、映画が誕生するまでもっとも大衆的な娯楽媒体だった。事実、冒険活劇、犯罪実話、家庭悲劇、あるいは汽船の遭難、鉄道事故、大地震など19世紀メロドラマの題材は、テーマ音楽とともに映画のなかへと受け継がれていったのである。サイレント時代の映画ではグリフィスの長編映画にメロドラマ性が濃厚であり、トーキー時代では『風と共に去りぬ』(1939)、『哀愁』(1940)、日本映画では『愛染かつら』(1938~39)、『君の名は』(1953~54)などが有名。大衆の心をつかんだメロドラマも、その御都合主義、扇情性、通俗性、感傷性のため、現在では蔑称(べっしょう)として使われる場合が多くなってしまった。
[岩本憲児]
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[17~18世紀]
知識人によって書かれたルネサンス喜劇は,反宗教改革の進行とともに衰退の道をたどり,かわってコメディア・デラルテに代表されるような民衆喜劇が主流を占めるようになった。同時にラウダや宗教劇に始まったオペラ的なものは,A.ポリツィアーノの《オルフェオ》を経て,16世紀には牧歌劇が発展整備され,やがて文学と音楽の関係がいっそう密になって,17世紀にかけてカバリPietro Francesco Cavalli,G.カッチーニ,C.モンテベルディなどの〈メロドラマ〉(オペラ)を生んだ。イタリア演劇ではこの〈メロドラマ〉が悲劇の役割を果たした。…
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