吉川村(読み)よしかわむら

日本歴史地名大系 「吉川村」の解説

吉川村
よしかわむら

[現在地名]西川町吉川

寒河江さがえ川中流右岸の河岸段丘端および山麓に集落がある。東は谷沢やさわ(現寒河江市)で、境界近くに稲沢いなざわ集落がある。北の対岸は熊野ゆうの村・石田いしだ村・柳沢やなぎさわ村。大江氏との関連が深く、建久元年(一一九〇)多田仁綱が大江広元領の寒河江庄目代として入部し、はじめ本楯もとだて(現寒河江市)に住み、のち当地に移り、仁綱の旧里摂津国多田ただ郷吉川邑(現大阪府豊能郡豊能町)になぞらえて名付けたという(「安仲坊系図」安仲坊大江文書)。承久の乱に敗れた大江親広は、はじめ沼山ぬまやま中岫なかぬきに潜み、のち富沢とみざわ(現大江町)に住したが、鎌倉幕府から勘気の許された貞永元年(一二三二)頃から再び当地に移り、安仲坊と称したといわれる。従臣のうち高橋満明は当地に住み、嘉禄元年(一二二五)親広が月山大権現を勧請し、二千束刈の神田を寄せたとき祭主になった(「高橋家系図」高橋文書)。嘉禄元年大江広元が没すると、親広は阿弥陀像を造り、多田源氏の祖満仲の念持仏と広元の遺骨を胎内に納めて村内に安置した。仁綱は貞永三年没し、吉川阿弥陀堂の傍らに葬られた(安仲坊系図)。親広は仁治二年(一二四一)没し、やはり阿弥陀堂傍らに葬られている(西村山郡史)。大江氏七代時茂の四男時氏は、うるし(現大江町)の戦いのとき病のため当地にあって命をながらえ、のち北朝にくだって寒河江氏を称する(安仲坊系図)。左沢大江氏六代政勝の三男政周は、吉川を名目相続し八郎五郎吉川兵部少輔と称したが、永正一一年(一五一四)伊達稙宗長谷堂はせどう(現山形市)で合戦を行い戦死した(同系図)


吉川村
よしかわむら

[現在地名]中主町吉川

つつみ村の北西、野洲川左岸に位置し、北は琵琶湖に面する平地に立地。十六じゆろく三十地さんじゆちの古代条里の数詞坪地名が残る。「山科家礼記」文明一二年(一四八〇)八月一五日条に「吉川の津田方鰍十くれ候」とみえ、当地居住の津田氏から魚を送られている。明応二年(一四九三)閏四月一六日の伊庭貞隆書下(兵主神社文書)に「兵主郷内吉川簗」とみえる。明応六年のいろいろ帳(安治共有文書)兵主ひようず一八郷の一として「よしかわ村」がみえる。矢放やはなち神社蔵の大般若経巻二四〇の建長六年(一二五四)三月修治の識語に「近江国野洲北郡淵郷内河尻村」、同巻二七一に「野洲北郷内河尻村矢放大明神御経」、享禄三年(一五三〇)の紀年をもつ同巻三七五に「兵主郷内河尻村矢放宮」などとみえ、当村の湖岸部は河尻かわじり村とよばれ、初めふち郷、のちには兵主郷に属したようである。

元和四年(一六一八)の成箇帳(芦浦観音寺文書)によれば幕府領、高七三三石余。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]豊能町吉川・ときわだい一―六丁目・ひがしときわだい一―九丁目・光風台こうふうだい一―六丁目

能勢のせ郡に属し、高代寺こうだいじ(四八八・七メートル)の南東、現豊能町の西端に位置する。中央部を初谷はつたに川が南西流する。能勢街道が北進し、黒川くろかわ(現兵庫県川西市)へ至る。「摂津志」に「吉川属邑一」とあるが、この「属邑」は、慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図の吉川村西方にみえる保谷ほのたに村であろう。中世は「吉河」とも書いた。村名の初見は正応三年(一二九〇)一一月二二日の藤原頼衡田地売券(勝尾寺文書)で、「つのくにのせのこをりよしかわのむらのうちさるさかのきた、あさな(字名)りせんつくり」にある一反の田地を、吉河宰相阿闍梨御房に売渡したことが記される。ただし、この田地は国衙領で、毎年所当米を懈怠なく納入すべきことがあわせて記される。その後も吉河宰相阿闍梨御房は当村内の田畑を買い進め、取得した計四反を、同六年四月一八日の阿闍梨顕心田畠寄進状(同文書)によれば「毎月十八日法花転読供料田畠」として勝尾かつお(現箕面市)に寄進した。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]東広島市八本松はちほんまつ町吉川

西条さいじよう盆地西部に位置する。水丸みずまる(六六〇・二メートル)の南から東流して黒瀬くろせ川に注ぐ古河ふるこう川に沿った東西に長い小盆地を村域とし、西の熊野跡くまのあと(現広島市安芸区)から戸坂とさか峠を越え、村内中央を横切って四日市よつかいちに向かう往還は、熊野・西条両盆地を結ぶ重要なルートであった。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では村高四六二・四六石。天明二年(一七八二)村東部の下野原しものはら新開一四石余が高付されたが(明治三年「郷村高帳」広島大学蔵)、「芸藩通志」によれば同所の高付されていない分はなお三町二反あり、明治三年(一八七〇)には五町余に上った(郷村高帳)。このなかには下野原新開のほか、その北の東原ひがしはら新開、字中横野なかよこのの古河川北岸と字戸坂にある六郎兵衛ろくろべえ新開などが含まれていたと思われる。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]若桜町吉川

岩屋堂いわやどう村の南、吉川川の谷奥に位置し、当地で江浪谷えなみだに川が吉川川に合流する。江浪谷川は二谷に分れ、東の谷を登り詰めると大通おおどおり峠がある。この峠を地元ではオオドレ峠とよび、播磨国宍粟しそう千種東河内ちくさひがしこうち(現兵庫県千種町)に至る。西の谷を登り詰めると小通こどおり(現江浪峠)で、同西河内村(現同上)への道である。また吉川川本流の谷を詰めるともう一つの小通峠があり、美作国吉野よしの大茅おおがや(現岡山県西粟倉村)に至る。この峠を美作側からは若杉わかすぎ峠とよぶ。この三峠とも雪中は牛馬の通行は不可能であった(因幡志)。天正八年(一五八〇)ないしは九年の羽柴秀吉の因幡侵攻のとき、秀吉は播磨から当地に入ったと伝え、当地の辻堂に一夜の陣を布いたという(同書)。両年いずれかの九月一二日、秀吉は「よし川村」百姓中に「当陣中、通路之者不寄上下、いわれさる族申懸もの」があれば、注進するよう命ずる掟書(因幡民談記)を発している。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]新城市吉川

鳥原とりはら村の東南、船着ふなつき山の南山麓にあり、村内を大入だいにゆう川が貫流する。八名やな郡に属した。中世は吉川郷とよばれ、日吉ひよし神社に残る応永六年(一三九九)の棟木に「宇利庄吉川郷」とある。

慶長六年(一六〇一)以来幕府領、元禄一一年(一六九八)から同一六年まで相模甘縄藩の松平弾正忠正久領、宝永六年(一七〇九)から遠江の気賀けが関所を管理していた近藤縫殿助用清の領地となった。これは同年気賀地方の洪水で水田が水没した替地として与えられたものである。天明四年(一七八四)再び幕府領に復す。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]賀陽町吉川

湯山ゆやま村の南にあり、宇甘うかい川の支流吉川川と加茂かも川の流域に広がり、分水嶺を越えて高梁たかはし川水系の落合おちあい川上流の唐人山からひとやままでを含む。大山だいせん往来が通る。中世の吉川庄の遺称地。慶長六年(一六〇一)木下家定に与えられた二万五千石のうちに吉川村一千八一石余がある(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図・正保郷帳でも同高。正保郷帳には枝村として黒山くろやま村・千木せんぎ村・まさ行村・西庄田にししようだ村・布郡ふごおり村・苅尾かりお(現刈尾)・加市田村(現河内田)藤田ふじた村が記される。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高一千八〇六石余。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]吉川町吉川・吉川団地よしかわだんち

現吉川町域の西半部のほぼ中央に位置し、村の西側を古利根川、東部を二郷半領にごうはんりよう用水が流れる。吉川郷の本村で、三輪野江の定勝みわのえのじようしよう寺鐘銘によれば、郡内に吉川および彦成ひこなり(現三郷市)の二郷があり、彦成以南を下半郷と称するので二郷半領の名があるという。またかつては南の平沼ひらぬま村も同村に属していたという(風土記稿)。地内に弘安七年(一二八四)を最古とし応永一八年(一四一一)・文安三年(一四四六)・文明一二年(一四八〇)などの紀年銘をもつ板石塔婆が多数ある。「本土寺過去帳」には「幡摩阿日幡 吉川 応永卅二乙巳六月」をはじめとして慶長一七年(一六一二)までの年次の知られるもの一八条を含む四一条に吉川または吉河の地名がみえ、吉河式部女・吉川彦太郎・吉川本如坊・吉川大弐などの人名も記される。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]湯浅町吉川

栖原すはら村・村の東に位置し、東は水尻みずしり(現吉備町)、南は湯浅村、北は糸我いとが峠で中番なかばん(現有田市)と接する。熊野街道は糸我峠を越えて当村を南北に抜ける。中世には湯浅庄に属し、建治三年(一二七七)六月一八日付僧宗弁在庁講庁職寄進状(施無畏寺文書)によれば、この時宗弁(湯浅景基の弟)が四ヵ村の在庁講庁職を施無畏せむい寺に寄進しており、吉河村も含まれていた。慶長検地高目録によれば村高六〇三石余、小物成二石六斗三升七合。


吉川村
きつかわむら

[現在地名]清水市吉川・上原うわはら一丁目

なな新屋しんや村の東、有度山うどさん丘陵北麓を北流してきた谷津沢やつざわ川下流に位置する。北は堀込ほりごめ村。村の南端を東海道が通る。寛永九年(一六三二)から幕府領、旧高旧領取調帳は旗本本郷領。元禄郷帳では高二八九石余。慶長一四年(一六〇九)一一月彦坂光正は「ろう人」に吉川村・七つ新屋村・堀込村・北脇きたわき村・渋川しぶかわ村の「右五ケ村荒地」の開発を命じ、同年と推定される一二月一〇日には「日用五拾人」を与えている(旧伴野家文書)


吉川村
よしかわむら

[現在地名]北浦村吉川

北浦西岸にあり、西は繁昌はんじよう村。中世は小高氏の支配領で(新編常陸国誌)、嘉元四年(一三〇六)の関東下知状案(鹿島神宮文書)に「行方郡大崎郷内地頭吉河孫四郎春幹」とある。戦国末期に佐竹氏領となり、その後、仁賀保氏領・皆川氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)府中(石岡)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)。文政四年(一八二一)の家数七〇(うち寺二・地借一)、人別三三六、男一七七(三人は江戸屋敷奉公黒鍬出人、七人は他領からの一季奉公入人、出家二、医師一)・女一五九(四人は他領からの一季奉公入人)、馬三一(「吉河村宗門人別面附御改帳」吉川区有文書)


吉川村
よしこむら

[現在地名]敦賀市吉河よしこ

坂下さかのした村の東北、向出むかいで山の南西山麓に位置する。西に敦賀平野が広がる。永正四年(一五〇七)二月一六日付金前寺寺領目録(金前寺文書)に「吉川」、永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(善妙寺文書)に「吉川村」とみえる。正保郷帳では田方一四八石余・畠方六石余。「越前国名蹟考」は「吉かう村」と訓ずる。天和二年(一六八二)小浜藩領より旗本井川領となる。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書には庄屋弥五郎(持高一三石余)、牛馬銀七匁余、新山手銀三〇匁、雉札銀一匁、岩籠山手銀九匁余、夫役三分、夫米二俵余、馬足九疋、牝馬七、家数二二(うち高持一二・無高一〇)、人数一〇二とみえ、明治一一年(一八七八)の戸数二〇(全戸農)、人数九四(滋賀県物産誌)


吉川村
よしかわむら

面積:四・五八平方キロ

物部ものべ川河口東岸の小村。近世の古川ふるかわ村と吉原よしはら村からなる。土佐湾に面し、東は香宗こうそう川を境に赤岡あかおか町、北は野市のいち町、西は物部川を隔てて南国市(ただし西岸に飛地がある)に接する。江戸時代には高知城下から下田しもだ(現南国市)を経て東進するしも街道が村域を通過し、赤岡の香宗川北岸で土佐街道(東街道)に合していた。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]大府市吉田よしだ

いし川が村の東側を北流し、西側は山地が続く。東は半月はんつき村に接する。「寛文覚書」によれば概高三二七石余、田方二六町一反余・畑方二町八反余、戸数二八・人数一九五、茶壺道中の際には鳴海なるみ宿(現名古屋市)へ人足を出すとある。「徇行記」には「細民多ケレ共本田ハ勿論、見取所山起マテモ能耕耘ユキトトキ、見取町数モ至テ延、他村ニ勝レタリ」といい、支村として向山・清水・大高山をあげる。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]弘前市吉川

目屋めや川を挟んで北は黒土くろつち村、西は桜庭さくらば村に接し、背後に山が迫る。

貞享四年(一六八七)の鼻和庄之内駒越組藤代組水帳数覚(八木橋文庫蔵)に村名はないが、元禄三年(一六九〇)には駒越組に属し、村位は上とある(平山日記)。村高は天保郷帳に四一・一石とあり、小規模な村落であった。


吉川村
よしかわむら

[現在地名]出雲崎町吉川

滝谷たきや村の南、西方剣峰けんがみね峠越で上条じようじよう村・逆谷さかしだに(現三島町)への道が通じる。正保国絵図に高一三八石余で幕府領。以降の支配の変遷は柿木かきのき村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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