日本歴史地名大系 「唐人屋敷跡」の解説
唐人屋敷跡
とうじんやしきあと
江戸時代、幕府が唐人を集住させた地。唐館ともいう。オランダ人を
享和二年(一八〇二)の長崎絵図に唐人屋鋪として二階建屋敷や平屋が描かれ、その北側に番所が置かれた。その北に新石火矢台、さらに北に細い架橋をもって通じる新地があり、唐人荷御倉・御米蔵・御番所とみえる。唐人が市中を徘徊して密商を行っていたが、手斧・竹槍などで威嚇することもあり、地役人の取締では応じきれないとして、文政三年(一八二〇)門前に番所を新設、大村藩から五八人を出して警備にあたらせた(長崎県史)。「弘化二巳年雑集記」に唐人一九棟とあるが、敷地内に通事部屋・乙名部屋・探番居所・番所・牢屋などが置かれた。また天后堂・観音堂・土神祠などが祀られ、関帝堂なども建立されていた。大門と中門の間は札場が置かれ、市店一〇七が開かれた(長崎実録大成)。町乙名から任命される唐人屋敷乙名はすでに元禄元年に二人定められ、同一〇年からは三人とされた(元禄唐人屋敷覚書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報