禁制を犯して行う貿易。貿易が一般的に禁止されていた鎖国時代のことばであり、開国後は、貨物の輸出入に関する「密輸出入」または「密輸」と同義に使われている。この貨物の輸出入を規制している一般的な法律として関税法、関税定率法があり、貨物の輸出入手続、関税の賦課・徴収、輸入禁制品などを定めており、これらの規制を越脱した不正行為に対して、無許可輸出入罪、関税ほ脱罪、禁制品密輸入罪の罰則を設けている。これが密輸の罪である。
[安藤 平]
古代の飛鳥(あすか)・奈良の律令(りつりょう)制時代には、密貿易ということばはなかったが、「関市令(かんしりょう)」によって、中央の交易唐物使(からものつかい)が交易する前に来航の唐商人と私(ひそか)に取引(私交易)することが禁じられ、これを犯したときは、「律」によって盗罪に準じて徒(ず)(労役刑)3年が科され、私交易品は没官(もっかん)(没収)された。平安時代の『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』は、蕃客(ばんかく)(来朝している外国人)との私交関には法に恒科ありとし、『百練抄』に、渡唐私貿易を行った筑前(ちくぜん)の住人が佐渡に流罪、一味は徒刑とされた例がある。また、契丹(きったん)(モンゴル系の遊牧民族)との間の密貿易で大宰府帥(だざいのそつ)が位一等を降下されている。室町時代の日明(にちみん)貿易においては、勘合(かんごう)の制度があり、明側では海禁政策をとっていたため、日本側からは「倭寇(わこう)」といわれる半賊半商の私貿易が行われていた。この倭寇は、勘合制度の枠外の非公認の貿易である点で密貿易的要素をもっていた。
江戸時代に入って1639年(寛永16)鎖国体制が完成するに及び、以後、外国貿易は、オランダ、中国の両国に限り長崎会所を通じて行われ、また朝鮮との間の交通は対馬(つしま)藩の統制下に置かれていた。この貿易体制を犯して外国商人と直接取引する密貿易を「抜荷(ぬけに)」といい、朝鮮との間の不正な出貿易を「抜船(ぬけぶね)」といった。鎖国下の密貿易に対する取締り、刑罰は、そのつどの「触書(ふれがき)」(定書(さだめがき)、覚書(おぼえがき))によっており、時期によって寛厳がある。これらの触書は『御触書集成』(寛保(かんぽう)、宝暦(ほうれき)、天明(てんめい)、天保(てんぽう))として集録されており、その刑罰は、寛文(かんぶん)年間(1661~1673)から1717年(享保2)までは威嚇刑主義により磔(はりつけ)、獄門、死罪、斬罪(ざんざい)、追放刑のほか縁坐(えんざ)制、家財闕所(けっしょ)(財産没収)、抜荷物没収が付加され、1718年から1788年(天明8)の間は、寛刑主義により生命刑が廃止されたが、1789年(寛政1)から幕末まではふたたび厳刑主義がとられ生命刑が復活した。この間の裁判記録は、長崎奉行(ぶぎょう)所の『犯科帳(はんかちょう)』(145冊)として今日まで伝えられている。
開港以後は、主として港内に停泊中の外国貿易船との間の密貿易であったが、駐在外国領事その他の記録によると、幕末期の箱館(はこだて)港では、関税のかかる品物のほとんどは密貿易であり、長崎港では官府(運上所、今日の税関)へ届け出たほかに50%の密貿易があったとされている。明治以降は、国内体制が整備されたため、このような密貿易はなくなったが、小規模のものは続いた。また、明治末期の条約改正に伴う関税自主権の確立とその後の関税改正による税率の引上げなどのため関税ほ脱犯が後を絶たなかったが、社会に及ぼす弊害は比較的少なかった。
[安藤 平]
第二次世界大戦後は、国内経済の進展と社会情勢の変遷と関連しておおむね4期にわたって密輸の発生と態様の変化がみられる。
第1期は、終戦直後から民間貿易の再開、朝鮮動乱を経ての日本経済の復興期であり、国家管理下の貿易体制における密輸で、当初は砂糖、純毛製品、ペニシリンなどの密輸入と沖縄・韓国への家庭薬品(新潟・富山の家庭薬品)などの密輸出であった。その手段は、機帆船による一船密輸あるいは外国貿易船からの海中投下によって行われていた。また、日本経済が急速に伸長し、「神武(じんむ)景気」といわれた1956年(昭和31)前後に津波のように押し寄せた密輸入は、男物の中三針腕時計(エニカ)と女性用の「南京(ナンキン)虫」とよばれた小型腕時計であった。この密輸入は、海路、空路、郵便を通じあらゆる方法で行われ、1952年から1959年の間に38万4000個が摘発されたが、巷間(こうかん)では月10万個が密輸入されていたと伝えられ、密輸基地香港(ホンコン)には年間100万個がだぶついていた。
第2期は、貿易自由化の進展した昭和30年代初頭から昭和40年(1965)にかけての「白い粉」(ヘロイン)の密輸入現象である。戦後の麻薬禍は、終戦直後から1955年ごろにかけてのヒロポン(覚醒剤(かくせいざい))に端を発し、1954年を境にヘロインに移行、1961年には京浜・阪神地区を中心に潜在的中毒患者は4万人に及び、ヘロインの密輸入は急速に拡大した。この供給源は、香港、バンコクを中心とし、1954年から1963年までに、ヘロイン50キログラム、生アヘン85キログラムが摘発されているが、摘発を免れたものはその数倍に達したとみられている。この麻薬禍と密輸入は、中毒患者の強制入院、取締機関の拡充、刑罰の強化(無期刑の採用)によって1965年にはほとんど終息した。世界麻薬禍史上特筆すべき「日本の奇跡」とよばれたものであった。
第3期は、昭和40年代前半の「いざなぎ景気」を経て国際収支の黒字基調への転換とこれに続く日本経済の高度成長期であり、この期に彗星(すいせい)のように現れた密輸現象は、金塊の爆発的密輸入であった。これは、金の国際自由市場価格と日本の金輸入制限(事実上の輸入禁止)による国内価格との差益を求めて国際密輸シンジケートによって組織的に行われたものであった。1965年から1968年の3年間に羽田空港で469キログラム、横浜港で460キログラムが摘発されており、さらに各開港においては中国船員による景福金(50匁=187.5グラム)の密輸入が頻発し、ゴールドラッシュを現出した。この密輸は、1973年4月以降の金輸入の自由化に伴ってまったくその姿を消した。
第4期は、「昭和元禄(げんろく)」といわれ始めた昭和40年代中ごろからの暴力団を中心とする銃砲(拳銃(けんじゅう))と麻薬密輸入の再燃現象である。この表徴的なものは大麻(たいま)(マリファナ)、覚醒剤の急速な増大であり、その密輸経路は、東南アジア(大麻)、韓国、香港、フィリピン(覚醒剤)を中心としており、いまや覚醒剤は密輸の王座を占めるに至っている。この大麻、覚醒剤、銃砲は、社会悪事犯として現代の「密輸三悪」とよばれている。
このような密貿易は、古今を問わず、また洋の東西にかかわらず、通商交易が規制され、関税が賦課されるところに生起する現象であり、西ヨーロッパのアンシャン・レジームにおいては高関税との関連で頻発したものであった。現代ではアメリカをはじめとする欧米諸国においても麻薬禍の猖獗(しょうけつ)(防ぎきれない猛威)とその密輸入対策に苦悩している。
[安藤 平]
グローバル化の進展は、人、金、物、そして情報の移動とともに、犯罪現象も容易に国境を越えることができるようになっているため、密貿易についても国際的規模をもった組織犯罪へと移りつつある。さらに2001年のアメリカ同時多発テロ事件以来、世界の各国でテロによる薬物・武器の密貿易なども多発するようになっている。日本の犯罪対策においても重要な課題となりうるであろう。
[前田拓生]
『高柳真三・石井良助編『御触書寛保・宝暦・天明・天保集成』(1958・岩波書店)』▽『谷川寛三著『税関異聞』(1972・サイマル出版会)』▽『川村良弘著『密輸と闘う税関Gメン』(1984・日本関税協会)』▽『森永種夫著『犯科帳』(岩波新書)』
…江戸時代の用語で,禁令を犯して取引すること,すなわち密貿易をいい,またその取り扱う品物をもいった。およそ次の二つの場合がある。…
※「密貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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