喜多川 平朗
キタガワ ヘイロウ
昭和期の染織家 俵屋17代目。
- 生年
- 明治31(1898)年7月15日
- 没年
- 昭和63(1988)年11月28日
- 出生地
- 京都府京都市西陣
- 本名
- 喜多川 平郎
- 学歴〔年〕
- 京都市立絵画専門学校日本画科〔大正10年〕卒,川端洋画研究所
- 主な受賞名〔年〕
- 紫綬褒章〔昭和42年〕,日本キワニス文化賞〔昭和43年〕,京都市文化功労者〔昭和45年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和48年〕,京都府芸術文化特別賞〔昭和58年〕,伝統文化ポーラ大賞(第5回)〔昭和60年〕
- 経歴
- 400年前から唐織を手がけてきた俵屋に生まれ、小学生のとき竹西栖鳳に入門。大正12年から家業の織物制作に従事。昭和2年俵屋17代目を継ぎ、有職装束の高田家に請われて有職織物を始める。また、正倉院御物の曝涼(ばくりょう)を見学して古代の織物の美に魅せられ、きわめて薄い絹織物である羅のさまざまな織り方を、中世までの時代を追って復元。戦後、羅と有職織物の技法で2度人間国宝に認定された。復元は創作ではないとの信念から、伝統工芸などの作品展には出品しなかった。晩年洛北・岩倉に伝承織物研究所を創設した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
喜多川平朗
きたがわへいろう
(1898―1988)
染織工芸家。本名平郎。京都西陣の有職(ゆうそく)織物の老舗(しにせ)俵屋(たわらや)に生まれる。1921年(大正10)京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。27年(昭和2)家業を継ぐ。大正~昭和の正倉院資料調査整理などに刺激を受けて古典染織の研究に入り、31年から正倉院裂(ぎれ)の調査を行い、錦(にしき)、綾(あや)、羅(ら)など、古代の織技や染色技法の復原を試みた。とくに、衰退していた古代以来の羅を体系だてて復原、56年(昭和31)には「羅」、60年には「有職織物」の重要無形文化財保持者に認定された。また紋織技法の第一人者で、今日の生活に適した紋織物の創造にも努力を重ねた。
[今永清士]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
喜多川平朗 きたがわ-へいろう
1898-1988 昭和時代の染織工芸家。
明治31年7月15日生まれ。京都西陣織の老舗(しにせ)俵屋の17代目。正倉院裂(ぎれ)などの古典染織の研究と復元につとめる。昭和31年羅(ら)で,35年有職(ゆうそく)織物で人間国宝。昭和63年11月28日死去。90歳。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。本名は平郎。作品に「斑金錦牡丹唐草文帯」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
喜多川 平朗 (きたがわ へいろう)
生年月日:1898年7月15日
昭和時代の染織工芸家。俵屋17代目
1988年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の喜多川平朗の言及
【羅】より
…しかし羅の織製が,中国では漢代以降,明・清代に至るまで一貫して続けられてきたのに対し,日本では平安時代以降中世を経るうちに衰微し,江戸時代にはわずかに無紋の羅が冠に供されるためにのみ織製されてきたにすぎない。紋羅の復興は昭和に入り,京都の喜多川平朗(きたがわへいろう)(1898‐1988)による,上代羅の復元を契機に可能となったもので,これにより氏は1956年に重要無形文化財に指定された。【小笠原 小枝】。…
※「喜多川平朗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」