嘉手苅村(読み)かでいかるむら

日本歴史地名大系 「嘉手苅村」の解説

嘉手苅村
かでいかるむら

[現在地名]石川市嘉手苅かでかる

伊波いふあ村の南西にあり、西は恩納うんな間切仲泊なかどうまい(現恩納村)。カディカルとよばれる。当村は屋号新垣屋あらかちやー(現橋口)上の屋いーぬやー門の屋じょーぬやー前の屋めーぬやーの四つから始まったといわれ、この四つの大元うふむーとうは伊波村の屋号大屋うふやであることから、同村から移って来たとされる(石川市史)絵図郷村帳には越来ぐいーく間切として「かでかる村」が記される。琉球国高究帳では伊覇(伊波)村と一括して記され、一村と把握されていたようである。現在でも伊波・嘉手苅と併称される。「琉球国由来記」には嘉手苅と記されるが、「琉球国旧記」には村名はあげられていない。村位は田畠とも中(里積記)。伊波村同様に康熙一一年(一六七二)越来美里んざとう両間切の境界が改められた際、美里間切に編入された(「球陽」尚貞王四年条)。嘉慶一六年(一八一一)、当村の仲宗根筑登之、伊波村の登川仁屋ら二〇人は、自費で高さ一丈二尺、長さ二丈四尺、横九尺、長さ四六〇間余の水路山川久我智原やまがわくがちばるより両村の天水田まで開いた功により、爵位を与えられ褒賞された(「球陽」尚王八年一二月二七日条)


嘉手苅村
かでかむら

[現在地名]下地町嘉手苅かでかり上野うえの村上野

洲鎌すかま村の東にあり、東は砂川うるか間切宮国みやーぐん(現上野村)に接する。南部に深い入江があり、大洋に通じる。正保国絵図では親道と考えられる朱線路が描かれるが、細く深い入江には「歩渡り」と記される。雍正旧記は蔵元(現平良市)より南南東二里一町六間、洲鎌村番所より宿次二二町七間の地にあると記している。古くは長さ三一間・横二五間で南南西向きに門を構える久場川くばか城に拠る久場川按司の支配するところであった。久場川按司滅亡後人々は離散し、久しく野原となっていたが、康熙五三年(一七一四)嘉手苅村として再興されたという(同旧記)。「球陽」尚敬王二年(一七一四)条に小場嘉按司と記し、同趣旨の記述をしている。


嘉手苅村
かでいかるむら

[現在地名]久米島町嘉手苅かでかる

具志川ぐしちやー間切の南東端部に位置し、西は兼城かにぐしく村、南東は仲里なかざとう間切儀間じま村。カディカルと発音する。北境付近を白瀬しらーし川が流れ東シナ海に注ぐ。白瀬川河口を臨む崖上に伊敷索いしきなわグスクがある。海岸砂洲が続く。初め久米中城なかぐしく間切(仲里間切)に属した。絵図郷村帳に「かでかる村」とみえる。琉球国高究帳では「かてる村」とみえ高頭二六一石余、うち田二一六石余・畠四四石余。乾隆一一年(一七四六)久米島検地により諸村が再編成された際、当村は仲里間切から具志川間切に、一方山城やまぐすく村は具志川間切から仲里間切に切替えられ、大屋子地も交換された。


嘉手苅村
かでいかるむら

[現在地名]西原町嘉手苅かでかる

内間うちま村の南にあり、北東掛保久かきぶく村、東は小那覇うなふあ村、西は小橋川くわしちや村。西方耕地が広がる。カディカルとよばれる。絵図郷村帳には「かてかる村」とみえ、「琉球国由来記」に嘉手苅村とある。同書には嘉手苅火神の拝所、祭祀場として内間うちま御殿(東西両御殿)が記載され、内間ノロが祭祀を管轄した。内間御殿を管理する東御殿守・西御殿守が置かれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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