日本歴史地名大系 「石川市」の解説 石川市いしかわし 沖縄県:沖縄島中部石川市面積:二一・一二平方キロ(境界未定)沖縄島の中心部に位置し、東は金武(きん)湾に面し、北西は国頭郡恩納(おんな)村、南東は具志川(ぐしかわ)市、南は沖縄市、北東は国頭郡金武(きん)町と接する。恩納村仲泊(なかどまり)と石川市石川の間は東西わずか四キロと沖縄島最短の地峡となっている。南部は琉球石灰岩の海岸段丘、北部は国頭マージで市内最高峰の石川(いしかわ)岳(二〇四・二メートル)がある。地質は琉球石灰岩から国頭マージに漸次移行し、その地質にあった植生が混在する。市中心部の字石川の西側から北に石川(いしかわ)川が流れ、金武湾に注ぐ。川岸にはマングローブが繁茂する。沖縄島の南北を東海岸側で結ぶ国道三二九号が東部を通り、かつてはこの道筋に沿って古琉球―近世の宿道東海道が走っていた。沖縄島の東海岸と西海岸を結ぶ県道六号線が南東から北西に走り、沖縄国際海洋博覧会を契機に建設された同六号線バイパスが同号線と国道三二九号を結ぶ。沖縄自動車道が西部を南西から北東へ通過し、北部に石川インターチェンジが設けられている。現在、混雑する市街地を迂回するための国道三二九号バイパス工事が進められている。〔先史時代・古琉球〕伊波(いは)地区の琉球石灰岩台地縁辺には貝塚時代前期後葉の標式土器伊波式土器が出土した伊波(いは)貝塚(国指定史跡)、前期の古我地原(こがちばる)貝塚・石川(いしかわ)貝塚などがある。同台地の伊波(いは)グスク(県指定史跡)は今帰仁(なきじん)グスク(現今帰仁村)城主の遺児今帰仁子(のち伊波按司)によって築かれたと伝える。〔近世〕市域の各村は当初中頭方越来(ぐいーく)間切に属していた。康熙五年(一六六六)に同間切を割いて美里(んざとう)間切が新設された際に美里間切に属し、同一一年、越来間切と美里間切の境界が検分を経て改めて設定されると、嘉手苅(かでいかる)・山城(やまぐしく)・伊波(いふあ)・石川(いひちやー)・渡口(とうぐち)の各村は美里間切として確定した。 石川市いしかわし 沖縄県:沖縄島中部石川市石川市一九四五(昭和二〇年)―四六年に米軍政府が制定した沖縄島中部の住民収容地区名。美里(みさと)村(現石川市・沖縄市)の一字であった石川は一九四五年三月二四日の空襲で集落の大半を焼失し、住民の多くは羽地(はねじ)村(現名護市)に疎開したほか、石川(いしかわ)岳北方の谷間に避難していた。四月二日に米軍に占領されると北谷(ちやたん)村(現北谷町)、読谷山(よみたんざん)村(現読谷村)の住民の収容地区となり、五月上旬には人口一万数千人、八月には三万人にものぼった。同年八月二〇日、軍命で沖縄各地の収容所から石川に集まった代表者らによって沖縄諮詢会が開催された。沖縄諮詢会は四六年四月に沖縄中央政府(のち沖縄民政府)設立まで政治機関として機能し、石川はこの時期に沖縄の政治・経済・文化・交通の中心地として大きな役割を果した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by