四ヶ村(読み)しかむら

日本歴史地名大系 「四ヶ村」の解説

四ヶ村
しかむら

[現在地名]大牟田市四ヶ・四箇新町しかしんまち一―三丁目

上内かみうち村の東にあり、北は亀尻かめじり(現高田町)山門やまと北関きたのせき(現山川町)、東は肥後国。全体に山がちで南西には上徳うわとこ山があり、中央部は盆地状の低地となっている。かつては中尾なかお中原なかばる湯谷ゆや川床かわどこの四ヵ村であったことが村名の由来とされる。肥後熊本藩の国学者井沢長秀(蟠龍)が宝永三年(一七〇六)に書いた「南関紀聞」によれば、四ヵ村はもと南関なんかん(現熊本県南関町)の領主大津山氏の所領であったが、大津山資秋の娘えんが三池上総介鎮照に輿入れした際化粧田として与えられた。その後天正一五年(一五八七)に大津山氏が肥後の国衆一揆で滅ぶと、南関の住民と三池みいけの住民がその帰属をめぐって争い、三池側の巧妙な策略にだまされた安国寺恵瓊の裁断により筑後領に決まったという話を土俗の説として紹介している。


四ヶ村
しかむら

[現在地名]高城町四家しか

国見くにみ山・岩骨がんこつ山の北麓に位置し、南は有水ありみず村。西から北をとりまくように大淀川が流れる。古くは無人の地であったが、保元(一一五六―五九)承久(一二一九―二二)の頃に平氏の落人の黒木・井上・二見・長嶺の四氏が潜居したことから四ヶ村の名が起こったと伝える(日向地誌)。江戸時代は鹿児島藩領で、高城郷に所属。「三州御治世要覧」に四ヶ村とみえ、「古ハ下川内村」と注記され、日向国覚書などには下河内しもかわち村とみえる。中世にも下河内地名が登場するが、これは当地のことであろうか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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