改訂新版 世界大百科事典 「四月革命」の意味・わかりやすい解説
四月革命 (しがつかくめい)
1960年4月に韓国で起きた学生を中心とした李承晩政権打倒の大衆蜂起。同年3月15日の大統領選挙の不正に抗議した馬山市民の蜂起後,行方不明になっていた中学生金朱烈の惨殺死体が発見されるや,抗議の声は全国に広がり,4月19日ソウルの大学のほとんどがデモに決起し,市民をもまきこみ騒乱状態になった。さらに25日には大学教授団のデモ,26日に第2次の大デモが展開されるなかで李承晩は退陣を表明した。この闘争は自然発生的であったが,李承晩退陣後の許政過渡政府,張勉政権下で進められた不正蓄財者追放などの改革に対して,より根本的な改革を求める民衆は,(1)自由と民主主義,(2)祖国の自主的平和的統一,(3)韓国経済の自立化の三つを課題とする反帝闘争へと運動を発展させようとした。しかし,これに対するアメリカの危機感を背景に,61年,朴正煕ら軍部によって起こされた五・一六クーデタにより挫折した。ここまでの約1年間を四月革命という場合もある。
四月革命の直接的原因は三・一五不正選挙であるが,その背景には,李承晩政権の危機が50年代末のアメリカの対外政策の変更によりいっそう深刻化したことがある。アメリカは,経済援助の投下政策から経済開発によって支配の安定をめざす政策に転換しつつあり,韓国への経済援助を大幅に削減した。そのため援助に依存して成長した製粉・製糖・紡織工業を中心とする韓国経済は深刻な危機に陥った。これに対して李承晩政権は援助削減反対を唱えるだけで効果的な経済政策をたてられず,反共・反日を民衆統合のスローガンとした李承晩による対日通商断交も韓国経済の危機を深め,アメリカの新たな対外政策の構想に対応できなかった。ここに李承晩政権は民衆のみならず,アメリカからも見放された。しかし,四月革命の三つの課題は,変革主体の側の理論的,組織的限界性ゆえに実現されなかった。それは現在にも引きつがれ,〈未完の革命〉とも呼ばれている。
執筆者:大和 和明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報