土地革命戦争(読み)とちかくめいせんそう(その他表記)Tǔ dì gé mìng zhàn zhēng

改訂新版 世界大百科事典 「土地革命戦争」の意味・わかりやすい解説

土地革命戦争 (とちかくめいせんそう)
Tǔ dì gé mìng zhàn zhēng

地主階級を打倒し,封建的土地所有制を廃絶して,農民に土地を分配する中国現代の革命運動をいう。中国共産党の指導下,国民党との十年内戦期(1927-37)に,江西省瑞金地方はじめ各農村革命根拠地で展開された。のちに人民共和国成立の前後に実施された同一の運動は土地改革と称する。国民革命期(1924-27)に中国共産党は国民党と合作農民運動講習所を広州,武漢に開設して農村幹部を養成し,各地に〈農民協会〉を組織するとともに,過酷な地主・小作関係の改善と〈減租減息〉を掲げて農民運動を繰り広げた。だが1927年7月に国共合作は破れ,中国共産党は同年8月7日の緊急会議で武装蜂起と土地革命の方針を確定,これ以後農村に入って労農革命軍を創設し革命根拠地を拡大,〈農村で都市を包囲する〉土地革命戦争を推進した。したがってこの時期を土地革命戦争期ともいう。

 土地革命はコミンテルンと党中央の指導で行われたが,いかに農村の階級を区分し,どのように土地を没収して農民に分配するかはきわめて複雑な問題であり,試行錯誤を経て中国農村の現実に即した路線と方法を確立していった。根拠地で実践中の毛沢東が最も早く制定した〈井岡山土地法〉(1928年12月)には,地主所有地だけでなく〈すべての土地を没収する〉とあり,土地はソビエト政府の所有に帰し,農民は使用権を持つのみで売買は禁止された。土地の分配も,人口に応じ〈郷〉を地域単位とするほか,労働力に応じ〈区〉を単位とすることも認めている。翌年4月の〈興国県土地法〉では〈すべての公共の土地および地主階級の土地を没収する〉と改められたが,他は変わっていない。しかしその後の毛沢東による〈革命軍事委員会土地法〉(1930年8月)はじめ農村調査,決議・書信等でみると,のちの土地改革時に採られた路線が,1931年ごろすでに形成されている。すなわち貧農雇農依拠,中農と団結富農は制限,地主は打倒の階級政策により,土地の分配は郷を単位に老幼男女の別なく人口に応じ,元の耕作地を基礎に〈抽多補少,抽肥補瘦〉(土地の多少,肥瘦を調整して均等化)し,農民の土地所有権を完全に認めるものである。

 これに対して党中央の李立三,陳紹禹(王明),秦邦憲(博古)らはコミンテルンの指導とソ連の経験を教条的に受け入れ,現実から離れた極左路線を採った。例えば〈土地暫行法〉(1930年6月)では集団農場や集団生産の実施をうたい,〈中華ソビエト共和国土地法〉(1931年11月)では〈地主不分田,富農分壊田〉(地主に土地を分配せず,富農に悪い土地を分配する)を主張している。このためしばしば中農の利益が侵害され,富農は過度に打撃を受け,地主は肉体的に消滅されることになった。1933-34年の〈査田運動〉(土地分配と農村階級の点検調査)も,土地革命の成果を強化する目的で展開されながら,極左路線に支配され,かえって混乱をきたした。同時に軍事路線の誤りもあり,中国共産党は国民党の5度目の包囲攻撃に破れて根拠地を放棄,34年10月〈長征〉を開始することになる。この間,毛沢東は富農路線,右翼日和見と非難されたが,左翼偏向を是正するため〈農村の階級をいかに分析するか〉〈土地闘争中の若干の問題に関する決定〉を1933年10月に公布し,明確な階級区分の基準を提示した。これは土地革命の規範的文書で,のちの土地改革時の48年5月と50年8月にも再度補正・公布されている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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