土屋村
つちやむら
[現在地名]平塚市土屋
南西山間より湧出する座禅川が北東の南金目村境で金目川に合流、東は上吉沢村、西は足柄上郡井口村(現中井町)、南は淘綾郡黒岩村(現中郡大磯町)に接する。北東から南西へ小田原道が通り、村西で梅沢道が分れる。北方を曾屋道・波多野道が通る。土肥実平の弟で鎌倉幕府草創期からの御家人土屋宗遠の名字の地。岡崎義実の子で宗遠の養子となった土屋義清をはじめ「土屋人々」は建保元年(一二一三)五月の和田合戦で和田方に参加して敗れ(「吾妻鏡」同年五月六日条)、その所領は没収された。
天文四年(一五三五)一一月一一日の北条氏綱判物(県史三)によれば、父早雲の十七回忌にあたり、「土屋郷惣領分」の一六八貫六〇〇文および夏成(畠年貢)一〇貫文の地などが氏綱から早雲寺(現足柄下郡箱根町)に寄進されている。天正一三年(一五八五)と推定される酉一〇月二三日の北条家朱印状写(同書)によれば、京紺屋津田は「土屋之内七次」などでの未納の紺屋役徴収を認められている。小田原衆所領役帳には石巻正寿「五拾貫文 中郡土屋庶子分」、早雲寺「百卅八貫弐百文 中郡土屋惣領分」、神田次郎左衛門「廿貫文 中郡土屋寺分」とある。
土屋村
つちやむら
[現在地名]福岡町土屋
荒屋敷村の北、小矢部川左岸の低平地に立地。本村と枝村山岸からなる。中央を氷見道、西端を氷見道から分れた山麓沿いの道(山根道)が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に土屋村とみえ、役家数一九、三日市組に属した。ただし船渡しを負担したので無役であった(寛文三年「川西家高付帳」川合家文書)。正保郷帳では高七七八石余、田方三八町八反余・畑方一三町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八六七石、免六ツ一歩、小物成は山役三〇九匁・野役三一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。宝永年間(一七〇四―一一)の百姓家数四五(「覚帳」杉野家文書)。
土屋村
つちやむら
[現在地名]成田市土屋・美郷台一―三丁目
成田村の北に位置し、東側を根木名川が北西流する。文禄三年(一五九四)の検地帳(土屋区有文書)に印旛郡埴生庄土屋之郷とある。佐倉藩領。寛永一九年(一六四二)の年貢割付状(同文書)では高五九八石余、慶安元年(一六四八)に新田七石余が増え高六〇五石余となる。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、小物成として夫役永一貫七〇九文余・栗代永一五六文・山銭鐚八六二文・新山銭鐚二〇三文。年貢高は二八〇石から三〇〇石台であったが、天明六年(一七八六)には一二四石余に減少している。これは長雨により利根川が大洪水を起こし、根木名川べりの田が水腐れの被害に遭ったためで、通常の年貢免除分高一五四石余に加え三二八石余も年貢免除となるなど、その割合は村高の六二パーセントにも及んだ。
土屋村
つちやむら
東は中野村、南は浅虫村(現青森市)、西は陸奥湾に面し、北は浪打村に接する。享保六年(一七二一)頃の弘前勘定奉行所の領内新古村名帳(平内志)に村名がみえ、天保郷帳に村高一・五石と生産は低いが、奥州街道の要衝で、黒石領と弘前藩領の境のため番所が設けられていた。寛政七年(一七九五)の「津軽の奥」に次のようにある。
<資料は省略されています>
嘉永三年(一八五〇)の「東奥沿海日誌」に「是より浜通り暫く行てカンカケ坂。
土屋村
つちやむら
[現在地名]大宮市土屋・プラザ
遊馬村の北東に位置し、荒川の沖積低地東端に立地する。村の西から南にかけて自然堤防が連なる。村内を与野町から川越城下へ通ずる道が通る。南方の遊馬村の内に飛地がある。植田谷領に属する(風土記稿)。田園簿では高一六五石余で、うち萱野銭永九貫九九九文、反別田八町九反余・畑六町余。幕府領と旗本小林領の相給で、以後幕末まで変わらなかった(寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)。
土屋村
つちやむら
[現在地名]矢板市土屋
針生村の東、箒川の右岸に位置する。近世は初め宇都宮藩領、宝永七年(一七一〇)幕府領、寛政二年(一七九〇)旗本横田領となり幕末に至る。慶安郷帳では高五七四石余、田方四三五石余・畑方一三八石余。元禄郷帳では高六五七石余。天保年間(一八三〇―四四)の家数二七(改革組合村)。明治九年(一八七六)の田三二町二反余・畑五六町一反余、家数三五・人数二五六(「村書上帳」矢板市史)。
土屋村
つちやむら
[現在地名]勢和村土屋
濁川に沿い、上流の車川村、下流の色太村の中間にある。北は古江村、南は上楠村(現大台町)と境する。文禄三年(一五九四)の多気郡検地帳写(徳川林政史蔵)に車川村・色太村と一括して記載されている。それによれば、当村の地積は九町一反五畝余、分米にして八五石七斗余があり、うち田が一町四反七畝余、屋敷地が三反七畝余で、他は畑である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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