土岐頼兼(読み)とき・よりかね

朝日日本歴史人物事典 「土岐頼兼」の解説

土岐頼兼

没年正中1.9.19(1324.10.7)
生年:生年不詳
鎌倉後期の武士。父は頼貞。美濃国土岐郡(岐阜県)の住人。後醍醐天皇の第1次討幕計画の謀議(無礼講)に,日野資朝に誘われて参加。正中1(1324)年北野神社の祭日9月23日を挙兵の日と定めていたが,密告によって六波羅探題の知るところとなった。六波羅探題は悪党追捕の名目で,京中,洛外の武士を招集した。これは頼兼ら謀反人を一網打尽にする謀略であった。9月19日の早朝,六波羅の兵2000騎余を率いた山本時綱は,三条堀河の頼兼宿所を急襲した。頼兼は奮戦したものの衆寡敵せず,寝所で自刃した。

(佐藤和彦)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土岐頼兼」の解説

土岐頼兼 とき-よりかね

?-1324 鎌倉時代武将
土岐頼貞(よりさだ)の子。美濃(みの)(岐阜県)の人。日野資朝(すけとも)らが中心となってすすめた後醍醐(ごだいご)天皇の鎌倉幕府転覆計画にくわわったが,密告により露見(正中(しょうちゅう)の変)。元亨(げんこう)4年9月19日六波羅方に攻められ自刃(じじん)した。

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