デジタル大辞泉
「多治見国長」の意味・読み・例文・類語
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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多治見国長
たじみくになが
(1289―1324)
鎌倉後期の武将。国俊の次男。通称四郎二(次)郎。多治見氏は清和源氏土岐氏の一族で、土岐光行の子息国義が美濃国土岐郡多治見(岐阜県多治見市)を拠点としたことに始まる。国長は国義の孫。『太平記』巻一によれば、後醍醐天皇の側近であった日野資朝(すけとも)は、討幕計画を進めるに当たって「様々の縁を尋ねて」同調者を募ったが、その一人が国長であり、後醍醐が主催する「無礼講」にも参加した。しかし計画は1324年(正中1)9月19日に発覚、錦小路高倉(にしきこうじたかくら)の宿所を六波羅(ろくはら)勢に攻められて、一族とともに奮戦するものの自害した(正中の変)。この一件を書き留めた『花園院宸記(はなぞのいんしんき)』同日条裏書によれば、国長は同族の土岐頼員(よりかず)(実は頼春)勧誘のため、23日の北野社祭礼に紛れて挙兵するという計画を打ち明けたが、頼員は舅の齋藤俊幸(利行)に密告してしまう。利行は六波羅奉行人であったため、挙兵前に鎮圧されることになったのであった。なお『多治見系図』は享年を36歳、法名を清高院峯秋(せいこういんほうしゅう)とする。これに従えば生年は1289年(正応2)。多治見市養正(ようせい)小学校に肖像画(市有形文化財)が所蔵され、同市新町に館跡(県史跡)が残されている。
[櫻井 彦]
『多治見市編『多治見市史 通史編上』(1980)』▽『多治見市教育委員会編『多治見の文化財』改訂第8版(2007)』
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多治見国長
没年:正中1.9.19(1324.10.7)
生年:正応2(1289)
鎌倉後期の武士。父は国澄。美濃国土岐郡多治見(岐阜県多治見市)の住人。後醍醐天皇の第1次討幕計画の謀議(無礼講)に,日野資朝に誘われて参加。正中1(1324)年9月23日の北野神社の祭日に,混乱にまぎれて蜂起しようと準備していたが,密告により六波羅探題の知るところとなった。このため,9月19日の早朝,小串範行の率いる六波羅の軍勢3000騎余に錦小路高倉の宿所を包囲された。奮戦したものの,衆寡敵せず,自刃した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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多治見国長 たじみ-くになが
1289-1324 鎌倉時代の武将。
正応(しょうおう)2年生まれ。美濃(みの)(岐阜県)土岐氏の一族。後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけて討幕計画(正中(しょうちゅう)の変)にくわわったが,一族の船木頼治の裏切りにより六波羅の幕府軍にせめられて元亨(げんこう)4年9月19日自殺した。36歳。通称は四郎二郎。
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多治見国長
たじみくになが
[生]正応2(1289).美濃
[没]正中1(1324).9.19. 京都
鎌倉時代後期の武士。四郎次郎と称した。父は土岐国純。美濃国に栄えた清和源氏土岐氏の一族。土岐頼兼とともに後醍醐天皇の討幕計画に参加したが,正中1 (1324) 年露見した際に幕府方の武士に攻められ敗死。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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