1324年(正中1)に後醍醐(ごだいご)天皇が鎌倉幕府の討滅を策し失敗した政変。1318年(文保2)の即位以来、政治に意欲を燃やし、21年(元亮1)に親政を実現した天皇は、幕府の皇位相続への干渉を絶とうとし、側近の参議日野資朝(ひのすけとも)、蔵人頭(くろうどのとう)日野俊基(としもと)らと謀り、ひそかに幕府を倒す謀議を重ねた。23年資朝はひそかに東国へ、俊基も病気療養のためと称して南畿(なんき)方面に下向し、同志の糾合に努めた。当時鎌倉幕府は内政の矛盾に苦しみ、北条(ほうじょう)氏の内訌(ないこう)もあり、その専制政治に一般御家人(ごけにん)も不満を抱いていたから、好機到来と判断したのであろう。しかし24年9月、密告によって情報をつかんだ六波羅(ろくはら)の兵は、挙兵準備中の美濃(みの)国(岐阜県)の武士多治見国長(たじみくになが)、土岐頼貞(ときよりさだ)(頼兼(よりかね))の京都の宿所を急襲し攻殺した。ついで資朝、俊基らを謀議の中心人物として逮捕し、鎌倉に護送して厳重に取り調べた。一方、天皇は老臣万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉に急派し、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)に、関与していない旨を陳弁し、資朝も自己一身に責任を負ったので、幕府も深く追及せず、俊基も許されて京都に帰った。このように第1回目の倒幕計画は事前に発覚、失敗したが、これがやがて第2回目の挙兵、元弘(げんこう)の変につながっていくのである。
[五味克夫]
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した初度の政変。天皇は1321年(元亨1)12月親政を開始し政道刷新に旺盛な意欲をみせた。天皇の卓越した指導力は公家社会の嘱目するところとなり,日野俊基ら儒臣との宋学研究は,大義名分の上から討幕を理由づけたと思われる。また天皇は一代主と定められていたため,両統迭立の原則を示し続ける幕府の存在は厚い障壁となっていた。一方幕府も内紛と寺社勢力の敵対に苦しみ,各地では悪党が跳梁するなど,幕府の専制支配にも破綻が顕著となった。この機をとらえた天皇は日野資朝ら近臣とはかって反幕勢力を糾合して,討幕計画を進めた。24年(正中1)9月23日の北野祭を期して挙兵する手はずであったが,同志の密告により事前に発覚,同月19日土岐頼有,多治見国長は六波羅軍に囲まれて自害した。資朝は佐渡配流。天皇は事件に無関係の旨の告文を幕府にいれて事なきを得た。
→元弘の乱
執筆者:森 茂暁
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元亨(げんこう)の変とも。1324年(正中元)9月,後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が事前に露見し失敗した事件。日野資朝(すけとも)・同俊基(としもと)らと倒幕の計画を練り,山伏に身をやつした俊基を遣わして各地の情勢を調べさせていた天皇は,1324年,無礼講と称する会合を開き,僧游雅(ゆうが)・玄基・足助重成・多治見国長らと謀議を重ね計画を固めた。その内容は,9月23日北野祭で例年おこる喧嘩に乗じて六波羅探題北条範貞を殺し,山門・南都の衆徒に命じて宇治・勢多を固めるというものであった。しかし計画は六波羅探題の知るところとなり,9月19日土岐頼兼・多治見国長は六波羅軍に敗れ,資朝・俊基も捕らえられた。その後,鎌倉で取調べをうけた資朝は佐渡に流されたが,俊基はゆるされて帰京し,天皇も万里小路(までのこうじ)宣房を鎌倉に遣わして陳弁につとめ,処分を免れた。
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