改訂新版 世界大百科事典 「均田制度」の意味・わかりやすい解説
均田制度 (きんでんせいど)
江戸時代の土地政策。均田とは土地を平等に分けて均等にすることであり,〈おのれ田なくて,豪民の田をかりて田つくる……民みなおのが田をつくりて,年貢をひとかたに出すやうにぞあらまほしき,それは均田の法にまさることあらじとぞ思ふ〉(中井履軒《均田茅議》)と地主的土地保持の改革は近代以前にも思考された。均田政策とよばれるものは1664年(寛文4)対馬藩の寛文改革にもあるが,大々的に地主の土地処分と分給を行ったのは佐賀藩である。衰微した郷村を復興するため1842年(天保13)12月に蔵入地では10年間借銀と加地子米(小作料)の支払を猶予する政策を出し,さらに農商分離を進めるため45年(弘化2)に農民の商業活動を禁止した。借銀・加地子猶予令で地主層は打撃を受けたが,年限のきた51年(嘉永4)12月にはそれを10ヵ年間延長した。翌年12月には伊万里・有田両郷内において,耕地をいったん上支配とし,そのうえで30町歩以上所持の地主には6町歩のみ,その他の地主には所持地の25%のみを与え,小作人には75%を分給した。両郷で加地子地処分がまず行われたのは,同地域に陶磁器商人など富裕な者が多く,その資力による土地集積が顕著であったためで,この上支配と分給政策は61年(文久1)に全蔵入地に適用された。もっとも,干拓地,開墾地,先祖伝来の土地では行われなかった。商人地主の排除が進められ,農商分離の徹底と本百姓維持体制の強化が目ざされた結果,有田町では20人の地主が98町歩の土地を完全に没収され,伊万里津では74人の地主が133町歩を取り上げられた。すなわち30町歩以上の所持者6町歩,それ以下は25%の支給の政策は徹底して行われたのである。一方,伊万里・有田両郷を含む西松浦郡内の20ヵ村の在村地主では57人が34町歩の土地を没収されたが,これは同村々の地主所持地の6%にすぎない。商人地主の排除がこうして進められたが,土地分給政策は支藩や地方知行地には適用されなかった。加地子地分給は明治期の加地子騒動の原因となった。このほか,均田令,均田の法は津藩の寛政改革,水戸藩の天保改革でも試みられたが,津藩では大規模な百姓一揆の反対で実現しなかった。
執筆者:長野 暹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報