改訂新版 世界大百科事典 「天保改革」の意味・わかりやすい解説
天保改革 (てんぽうかいかく)
江戸時代後期の天保年間(1830-44)に行われた幕政改革,藩政改革の総称。領主財政の窮乏・破綻,天保の飢饉を契機とした物価騰貴,一揆の激発などの社会的動揺,外国船来航による対外的危機などを克服し,幕藩体制の維持存続を目ざして行われた。天保の幕政改革は,享保・寛政のそれとともに江戸の三大改革とも称される。
幕政改革の開始と諸政策
天保初年の凶作飢饉は米価の高騰を招き,農村と都市の下層民を貧窮に陥れた。1836年には甲斐の郡内騒動,三河の加茂一揆など数万の農民をまきこんだ一揆が勃発し,翌年には大坂で元町奉行所与力の大塩平八郎が貧民の救済を求めて乱を起こした。この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。忠邦は,家斉時代の放漫と奢侈(しやし)を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標におき,綱紀粛正,倹約励行,風俗匡正に力を注いだ。なかでも奢侈の抑制は微細にわたり,江戸の町触(まちぶれ)において,女髪結(おんなかみゆい)の禁止,高価な櫛・笄(こうがい)・きせるの売買禁止,早作り野菜やぜいたくな料理の販売禁止など,町人の日常生活を厳しく規制するほか,芝居小屋を郊外に移転させたり寄席を閉鎖するなど,風俗匡正に名をかりて庶民の娯楽にも制限を加えた。江戸の町奉行に抜擢(ばつてき)された鳥居耀蔵(ようぞう)は,市中に隠密を放って違反者の摘発に努め,禁を犯した者には厳罰で臨んだため,市中は火の消えたようになった。
飢饉以来騰貴を続けた物価を引き下げることは改革の重要課題であった。幕府は,物価騰貴の根本原因を当時の商品流通の機構,つまり十組(とくみ)問屋仲間の流通独占にあると考え,41年12月に株仲間解散令を発し,江戸の十組問屋や三都の問屋・株仲間の名称による商取引をいっさい禁止して,一般の商人の自由な取引を許した。商人相互の自由競争によって商品流通量が増加し,物価は下がるであろうとの期待にもとづいたものであるが,実際には従来の流通機構が解体した結果,商品が江戸・大坂に集中せず,意図した効果をあげることができなかった。さらに物価対策としては,商人に対し直接小売値段の引下げを命じ,商品の買占めを禁じたり,価格の店頭表示を強制したほか,江戸市中の地代・店賃(たなちん)の引下げを断行し,職人の手間賃(てまちん)や日雇(ひやとい)の給金にも公定価格を定め値上がりを抑制した。この結果,幕府の強権によって一時的に価格が下落することはあったが,同時に市中の商況は不景気に陥り,町人らの不満が蓄積された。物価騰貴は,庶民とともに下級の旗本や御家人の生活を苦しめたが,幕府は彼らの生計を救済するために,札差(ふださし)からの借金に対し無利息20年賦返済という棄捐(きえん)に近い処置をとって負債の解消に努めている。農村については,凶作によって生まれた荒廃地を回復し,年貢を強化することが目標であった。人返し令は江戸出稼人の帰農を奨励し,新たに農村から江戸へ移住することを禁止するなど,農村の労働力を確保することを目的とし,同時に江戸市中の貧民の増大を防ごうとしたものである。
41年には近江の幕領で新開地(しんがいち)の検地を計画したが,農民の反対一揆によって中止となり,このあと幕府は,改革の重点を代官所支配の整備においた。当時は,幕領の代官は江戸在住のまま1,2年で交替するため農政を十分に見ることができなかったので,これを改めて代官に陣屋在住を命じ,10年未満の任地異動を許さないこととした。そのうえで全国の幕領農村に〈御取箇御改正(おとりかごかいせい)〉を実施した。これは,代官や勘定所役人が回村して,村内耕地の検分を行い,新開地の高入れや石盛(こくもり)の変更によって年貢の増徴を目ざした画期的な試みであったが,途中で水野忠邦が失脚したため中止されている。
上知令の失敗
この時期,中国大陸では清国がイギリスとアヘンの輸入をめぐり対立して戦ったが,近代的軍事力の前に屈して開港と領土の割譲を余儀なくされていた(アヘン戦争)。この報を聞いた幕府は,長崎の砲術家高島秋帆をよんで洋式の砲術訓練を行って軍事力の育成に努める一方,42年には文政の異国船打払令を撤回し,沿海に来航した外国船に薪水を供与することを許した(薪水給与令)。また海岸線の警備体制を強化し,江戸湾では浦賀奉行の監督の下に,川越藩・忍(おし)藩に防備を担当させ警戒に当たった。
ついで43年には,大名・旗本領のうち江戸と大坂10里四方の地を上知(あげち)させて幕領に編入し,ほかに代替地を与えるという上知令を発令した。これまで各地に分散していた幕府の直轄地を,比較的生産力の高い,政治的にも重要な地域に集中させるという方策であり,前述の代官支配の強化と相まって,幕領支配の再編強化を目ざしたものでもあった。しかし上知の対象となる大名らは,高免地(たかめんち)で在府中の賄所(まかないしよ)であり,しかも先祖代々の領地である土地を失うことに強い反対の意向をみせ,大坂周辺の農民も反対の声をあげるなかで,関係の領地をもつ老中や三家の内からも批判が生じ,上知令は撤回された。これを推進してきた水野忠邦は幕閣内で孤立し,43年閏9月には老中を罷免され,ここに幕府の天保改革は中止されるに至った。上知令の失敗は,全国の土地領有者として諸大名を従えてきた幕府の力が減退したことを示している。幕府の天保改革は総じていえば,復古的精神にもとづいて大胆な政策を相次いで提起したことに特徴があるが,現実と政策の乖離(かいり)が明らかになるにつれ,幕藩体制の危機をいっそう鮮明にさせるものであった。
諸藩の改革
幕府の改革と並んで,いくつかの有力な藩でも藩政の危機に際して,独自な改革を断行した。たとえば長州藩では,天保初年に藩専売制に反対する防長大一揆が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年に中士層に属する村田清風を登用して改革に着手した。まず従来の専売仕法を改めて農民からの収奪を緩和する一方,下関など主要な港に越荷方を設け他藩の船に資金を融通して利潤をあげた。また城下町商人を抑えて藩士の負債を棄捐にしたり,藩債を解消するなど藩財政の再建に努めた。薩摩藩では茶坊主出身である調所広郷(ずしよひろさと)の改革によって,三都の豪商から借り入れていた多額の借財を250年賦償還という強硬手段で整理し,財政の破局を切りぬけた。また奄美大島のカンショ栽培に専売制をしいて利益を収めるとともに,琉球との密貿易によって藩財政の充実に成功した。佐賀藩では,国産の陶器の専売制を強化するとともに,均田制度をしいて商人地主の発展を抑制し,小農依存の年貢強化を試みている。水戸藩でも藤田東湖ら改革派の主導によって領内の検地を行う一方,領内特産物の国産制を強化している。
これらの有力諸藩の改革に共通した特徴点をあげると,第1は,破局に瀕した藩財政の再建として改革が始まった点である。そこでは土地改革や国産制などの従来からの仕法のほかに,徹底した抑商主義にもとづくドラスティックな藩債整理が採用されたのが注目される。第2は,対外危機にすばやく対応し,海岸防備のために洋式砲術を導入し,火薬や大砲の製造を始めた点である。第3は,改革を通じて,従来の家格と門閥に縛られた守旧的な藩執行部に代わって,中下士層から能力を備えた人材が藩政に登場してきた点である。とくに第1と第3の点は幕府の改革と比べて対照的である。この改革に成功した雄藩は,開港以降の動乱期に政治的に活躍する足がかりを築いたのである。
執筆者:大口 勇次郎
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