日本大百科全書(ニッポニカ) 「垓下の戦い」の意味・わかりやすい解説
垓下の戦い
がいかのたたかい
中国、漢の劉邦(りゅうほう)が、その勝利を確定的にした戦い。秦(しん)朝滅亡後の中国は、紀元前206年4月、西楚(せいそ)の覇王を称し彭城(ほうじょう)(江蘇(こうそ)省)に本拠を構える項羽(こうう)を中心として、18人の王が全国に封ぜられ、いちおうの安定をみせるかと思われたが、斉(せい)地方の田氏の反乱をきっかけに、ふたたび統一への主導権をめぐって動揺した。項羽と劉邦が二大勢力であった。劉邦は漢中(陝西(せんせい)省南部一帯)を支配する漢王に封ぜられていたが、これを不満としてただちに行動を起こし、関中を併合、勢力を拡大しつつあった。しかし、前204年には滎陽(けいよう)(河南省)に陣を敷く劉邦が項羽の楚(そ)軍に囲まれ、落城が迫る危機をからくも脱出するなど、軍事的には項羽がつねに優勢であった。
翌前203年、このような楚漢の長期抗争もいよいよ終局を迎えた。この年、互いの勢力圏を認めあう和議が成立し、それぞれ本拠地へ帰ることになった。劉邦はこの機に乗じて、にわかに軍を返して項羽軍を背後から急襲、ついに垓下(安徽(あんき)省)に追い詰めた。項羽は四面四方を包囲する漢軍から夜中、楚歌が流れてくるのを聞き、郷里の楚兵も敵軍に加わったことを知り、もはや武運の尽きたことを覚(さと)った(四面楚歌の故事の由来)。そして、愛姫虞美人(ぐびじん)を傍らに、最後の杯を掲げ、敵陣の中へ散っていった。このときの辞世の詩が「垓下の歌」として知られるものである。
[春日井明]