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天下統一 てんかとういつ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天下統一
てんかとういつ

応仁(おうにん)の乱(1467~77)以後の100年にわたる群雄割拠の戦国乱世を終息させ、織田(おだ)・豊臣(とよとみ)二氏によって推進された事象をいい、安土(あづち)桃山時代を特徴づけることばとなっている。
 本来この「天下」ということばは、古代中国に由来し、春秋末期に至り周王朝が衰えて国内が分裂状態に陥ったとき、新しい主権者による統一社会の実現の目標として創出された地理的・政治的・文化的観念であった。やがて「修身斉家、治国平天下」という形で儒教的政治理念――徳治主義――を形成することになり、この「天下」観念はわが国にも早くから伝えられ、すでに古代の詔勅や宣命(せんみょう)などにも「天下」の語が頻用されている。中世にも源頼朝(よりとも)が鎌倉開幕にあたって「天下草創」と称したことや、また足利尊氏(あしかがたかうじ)の室町開幕が「天下をも草創し給(たまひ)ける」といわれたことなどもよく知られており、このように日本の歴史において中央集権的な国家体制、あるいは新しい中央集権の樹立が指向されるときには、当然想起されるべき概念とさえなっていた。1565年(永禄8)5月、天下の支配者たる将軍の地位にあった足利義輝(よしてる)が松永久秀によって弑逆(しいぎゃく)され、それより約2年後の67年8月に織田信長が美濃(みの)国井ノ口城の斎藤龍興(たつおき)を逐(お)って、同城を岐阜城と改名し、同年11月ころより「天下布武」の印を始用するのも、天下雄飛の第一歩を踏み出そうとする意識の表れである。この「天下」意識は武家のみでなく、職人の世界においても現れ、16世紀中ごろより塗師(ぬし)の「天下一」、畳刺(たたみさ)しの「天下一」というように、第一人者、日本一というほどの意味で職人たちが「天下一」を号するのも、職能による実力主義の表れである。と同時にこの民衆の「天下」意識のなかには戦国100年の争乱に倦(う)み、秩序の安定と平和の希求があったであろう。
 このように戦国乱世のなかから起こった「天下」意識は、国という概念が版図の拡大とともに推移したように、「天下」もまた自由に拡大されたはずで、究極には日本全国をさすが、「天下統一」の統一の中心は何かといえば、それは古代の王城の地、京都であった。信長はその発給文書のなかで、しばしば「天下之儀」「天下のため」「天下静謐(せいひつ)」などといっているが、「天下」は中央政局の動向、とりわけ京都におけるそれを意味している場合が多く、「天下」が京都でもあり、全日本でもあることは、それが単なる地域的な意味ではなく、京都を中心とするある種の伝統的な秩序構造を内包した社会領域を意味したといえる。上洛(じょうらく)ということが「天下統一」のための第一歩となったのはそのためであり、1568年9月織田信長が足利義昭(よしあき)を擁して上洛したことの意義は大きい。[橋本政宣]
『石毛忠著『織豊政権の政治思想』(『日本思想史講座4 近世の思想1』所収・1976・有斐閣) ▽高木傭太郎「織田政権期における『天下』について」(名古屋大学大学院文学研究科編『院生論集 九』所収・1980/『戦国大名論集17 織田政権の研究』所収・1985・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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