堀之内町(読み)ほりのうちまち

日本歴史地名大系 「堀之内町」の解説

堀之内町
ほりのうちまち

面積:六八・四五平方キロ

信濃川支流の魚野うおの川が町域中央を西流し、両岸に南北にやや細長く広がる。西は川口かわぐち町、南は十日町市・南魚沼郡大和やまと町、南東小出こいで町、北は小千谷おぢや市・古志こし山古志やまこし村および広神ひろかみ村。周囲は山で囲まれるが、南部の三坂みさか峠・うえノ山・たか山などの稜線の最高部でも高山の四八二・七メートルで、さしたる高山はない。南端三坂峠に源を発する田河たがわ川は、途中数本の細流を合せて北東流し、魚野川に注ぐ。流長約六キロ。かつては夏期の多くは流水涸渇して、驟雨が到来するとたちまち氾濫し、堤塘を決壊させる荒れ川であった。


堀之内町
ほりのうちちよう

下京区高辻通新町西入

東西に通る高辻たかつじ(旧高辻小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条三坊二保三町南側及び同四町北側、平安中期以降は高辻町尻小路西の地。平安京域では、当町北つら天神御所てんじんごしよ、南頬は前斎院さきのさいいんの敷地に含まれていた。応永三二年(一四二五)の酒屋交名(北野天満宮史料)に「参川 高辻町西南頬 兼実在判」とあり、当町に酒屋が居住した。


堀之内町
ほりのうちまち

[現在地名]熱田区白鳥しろとり

街道筋(中瀬町)より西へ秀泉寺前まで、町の長さ四八間と北のかけ町境から南へ田中たなか町境まで、町の長さ六六間半。町並ができた年代は不詳(徇行記)というが、笠覆寺文書の文安三年(一四四六)寄進状に「熱田宮堀内殿」、文正元年(一四六六)の売券に「うりぬしあつ田の宮ほり内」とみえるので、この地に室町時代、堀内という人物が住んでいたようである。


堀之内町
ほりのうちまち

[現在地名]松山市堀之内

松山城郭の三の丸に接する城堀の内部の総称。東・南・西方は城堀に囲まれ、東門によって一番いちばん町および二番にばん町に、北門によって府中ふちゆう町・木屋きや町に通ずる。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)をはじめ各種の城下町図にも町名は載せられていないので、幕末頃に堀之内町という俗称がつけられたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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