堀田正敦(読み)ほった・まさあつ

朝日日本歴史人物事典 「堀田正敦」の解説

堀田正敦

没年:天保3.6.16(1832.7.13)
生年:宝暦8(1758)
江戸後期若年寄,近江堅田,下野佐野藩主。博物学者。摂津守。仙台藩主伊達宗村の8男として仙台で生まれる。天明6(1786)年堅田藩主堀田正富養子,翌年家督相続,1万石。寛政1(1789)年大番頭,翌2年若年寄,勝手掛となり寛政改革の財政を担当。文化3(1806)年に1万3000石,翌年にはロシア船来航により蝦夷地に赴き,文政9(1826)年下野佐野に転封。12年に1万6000石。天保3(1832)年に75歳で致仕するまで43年間若年寄の職にあった。この間『寛政重修諸家譜編纂を総括するなど幕府の系譜編纂事業に寄与。また屋代弘賢,林述斎,大槻玄沢,谷文晁 ら学者,文人と交際,彼らの学問,芸術の庇護者となる。自らも博物学者として近世最大の鳥類図鑑『観文禽譜』を編纂した。<著作>『水月文章』『水月詠藻』『幕朝年中行事歌合』『蝦夷紀行』<参考文献>福井久蔵諸大名学術文芸研究

(根岸茂夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀田正敦」の意味・わかりやすい解説

堀田正敦
ほったまさあつ

[生]宝暦5(1755).仙台
[没]天保3(1832).6.16.
江戸時代後期の下野佐野藩主。仙台藩主伊達宗村の8男。近江堅田藩主正富の養嗣子となり,老中松平定信知遇を得て寛政2 (1790) 年若年寄となる。在職 43年の間定信と協力して寛政の改革遂行,また文化4 (1807) 年にはロシア船の蝦夷地来航の際みずから現地におもむいた。文政9 (26) 年下野佐野1万 6000石に転封。儒学,国学,和歌茶道に通じ,『源氏物語』を講じたことは有名。寛政9 (1797) 年『寛政重修諸家譜』を編纂。ほかに『干城録』『陸奥紀行』などを著わした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀田正敦」の解説

堀田正敦 ほった-まさあつ

1755-1832 江戸時代中期-後期の大名。
宝暦5年生まれ。陸奥(むつ)仙台藩主伊達宗村(むねむら)の8男。堀田正富の養子となり,天明7年近江(おうみ)(滋賀県)堅田(かただ)藩主堀田家6代。寛政2年若年寄。文政9年下野(しもつけ)(栃木県)佐野藩主堀田家第2次初代。「寛政重修諸家譜」編修の総裁をつとめ,鳥類図鑑「観文禽譜」も編集した。天保(てんぽう)3年6月16日死去。78歳。通称は藤八郎。号は水月。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の堀田正敦の言及

【寛政重修諸家譜】より

…1812年(文化9)完成。《寛永諸家系図伝》の続集を編修する意図のもとに着手されたが,途中より改訂編修に切り替えられ,1799年に官制を整え,総裁堀田正敦以下を任命し編修を開始,14年を費やして完成した。国主・領主をはじめ御目見(おめみえ)以上の士について1798年までの事跡を記す。…

【譜牒余録】より

…1799年(寛政11)成立。当時若年寄で《寛政重修諸家譜》の編集総裁であった堀田正敦の撰。諸家の書上をかなり忠実に転写したものとみられ,体裁・表記等は不統一であるが,幕府官撰の系譜としては《寛永諸家系図伝》《寛政重修諸家譜》に次ぐ貴重な史料である。…

【堀田氏】より

…江戸時代の譜代大名(図)。もと尾張の出身で,1602年(慶長7)正吉のとき,それまで仕えていた小早川氏が断絶して牢人となったが,05年徳川家康から番士に取り立てられた。正吉の長子正盛は3代将軍家光に小姓として仕え,のち若年寄・老中を歴任し,42年(寛永19)下総佐倉藩万石の領主となった。しかし51年(慶安4)正盛は家光に殉死し,跡を継いだ正信は60年(万治3)領地返上の上書を提出して無断で佐倉に帰城したため,所領を没収された。…

※「堀田正敦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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