堂山村(読み)どうやまむら

日本歴史地名大系 「堂山村」の解説

堂山村
どうやまむら

[現在地名]越生町堂山

津久根つくね村の北西越辺おつぺ川左岸の山間に立地。村名は往古大伽藍の寺(大御堂)があったからという(風土記稿)。「報恩寺年譜」に、建久元年(一一九〇)源頼朝が報恩ほうおん寺参詣の際に当地に来遊したが、美少年の姿で当地稲荷神が頼朝を送迎したとある。田園簿では田高三七石余・畑高三五石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)元禄郷帳では高九九石余。享保一八年(一七三三)に新田分の検地があった(風土記稿)。安永九年(一七八〇)村内を上分・下分に二分し、上分は川越藩領になり、下分は享和三年(一八〇三)旗本肥田領となる(風土記稿)

堂山村
どうやまむら

[現在地名]山都町蓬莱ほうらい

宮古みやこ川を挟んで中反なかぞり村の対岸北方に位置する。北は早稲谷わせだに村。本村の北東山間に小名長坂ながさかがある。当地は至徳年中(一三八四―八七)頃には堂平どうだいらと称していたが、のち堂山に改めたという。また当村の宮城家は木曾きそ村斎藤家・寺内てらうち村真部家とともに木曾組郷頭を勤める家柄で、村東部の山上にある館跡は宮城家先祖の宅跡と伝える(新編会津風土記)

堂山村
どうやまむら

[現在地名]小笠町嶺田みねだ

嶺田村東部の南、きく川の支流牛淵うしぶち川の右岸に位置し、南と西は堂山新田村。「郷里雑記」によれば昔は大沼の真ん中の凹地で、長雨が降ると村人は天棚(天井)に上って難を逃れた。周辺の村々はこれを「堂山棚に上る」とよんだという。洪水の害の多い小村であった。正保郷帳に村名がみえ、田方三二七石余・畑方四五石余、「日損」「水損」の注記がある。横須賀藩領(以後変化なく幕末に至る)。元禄郷帳では堂山村(高八〇石)・堂山新田村(高二九三石余)二村に分けて高付されており、当村の高はほとんど変りなく幕末に至る(天保郷帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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