塚本村
つかもとむら
[現在地名]函南町塚本
狩野川と大場川の合流点に位置し、東は仁田村、西は大場川を挟んで三薗村(現三島市)。「神鳳鈔」に「内宮塚本御厨」とみえ、伊勢内宮領であったが、木部氏に買得され、内宮へは上分として一貫文が納められていた。北条氏所領役帳に川越衆大道寺周勝の所領として三〇〇貫文「豆州塚本元渡辺九郎三郎跡」がみえる。北条氏は天正一六年(一五八八)一月、塚本に一五人の人足を出させて一〇日間山中城(現函南町・三島市)普請役に当たることを命じている(同年正月一四日「北条家朱印状」宮内直氏所蔵文書)。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]浦和市塚本
五関村の西に位置する。荒川の沖積低地に立地し、自然堤防地帯となっている。西は荒川を隔てて入間郡南畑新田(現富士見市)。南の八貫野に持添新田がある。中世には大窪郷に属し、応安二年(一三六九)七月二八日の大窪郷地頭方三分一方田畠注文(正木文書)に「つかもと」とみえる。田園簿では高一七四石余、うち水入見取三〇石余・草銭永二五〇文、反別田三町六反余・畑二七町六反余で幕府領。「風土記稿」によると寛文(一六六一―七三)の頃旗本津金又十郎に与えられたが、のち上知となったという。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]淀川区塚本一―六丁目、西淀川区柏里一―三丁目
中津川が西流から南流へと大きく流路を変える湾曲部内側にある。東は成小路村、南東は浦江村(現大淀区)、南は海老江村(現福島区)。村の西部に野里村(現西淀川区)への野里渡がある。野里渡の辺りを、「日本書紀」景行天皇二七年一二月条や、同二八年二月条にみえる「柏済」の地に比定する説もある。村名については「和名抄」にみえる西成郡の槻本郷に由来するとする説(摂津志など)、また南浜村源光寺(現大淀区)の本尊が一時当地に安置され、その跡に供養の塚(如来塚)が築かれたことにちなむとする説(天筆如来縁起「摂陽奇観」所収)がある。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]夢前町塚本
菅生澗村の北、菅生川左岸に位置する。慶長国絵図に「つかもと村」とみえる。正保郷帳では田方九七石余・畑方三〇石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高一四七石余(うち無土百姓弁五石余)、反別は田方五町八反余・畑方三町三反余、免四ツ九分、家数一九・人数一〇三。天保郷帳では高一六三石余。文化一一年(一八一四)の小物成訳書(姫路神社文書)によると草藁役・茶役・山役・川運上・茶役・楮役・柿渋役があり、ほかに安永八年(一七七九)には日光山諸社堂修理の助役として御用金五〇九匁余が課せられた(夢前町史)。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]五個荘町塚本
川並村の北東部にあり、同村と金堂村に挟まれた細長い村。村名は天智天皇の皇子川島皇子の塚があったことにちなむという。享保九年大和郡山領郷鑑には川並村の枝郷とあり、明治五年(一八七二)独立村となった。翌六年の地券図(滋賀大学蔵)によれば、集落は南東部の北出・西出・東出・南出・上り道に密集しており、また村境は北西に流下する二本の用水路で明確に区切られている。このうち金堂村境を流れる用水路沿いの各所には「清水出荒」の印が描かれており、清水付近からの湧水は金堂村用水として活用されている。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]松阪市塚本町
伊勢参宮街道は、塚本から船江を経て松坂町に至る。元文四年(一七三九)五月付塚本村検地帳(徳川林政史蔵)には、七二〇筆の田畑と七〇の屋敷を数え、田方が計三一町四反余(屋敷も含む)・三八九石余(同上)、畑方が八町二反余・八七石余、無地荒が八六石余、総都合五六三石余が記載されている。総じて良質の田畑が多い。小字名としては、下箱ノ坪・道故作・西松ヶ鼻・聖御前・里中通がみえ、屋敷は里中通に集中していた。寛永一一年(一六三四)一〇月二八日付飯高郡新田新畑帳(同蔵)によれば、当村のうちに計一反余の新田畑が検出されている。
塚本村
つかもとむら
[現在地名]銚子市塚本町
小船木村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に塚本とみえ、歓喜院が柑子木二本を植えていた。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一八七石余で、幕府領のほか旗本兼松・揖斐領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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