塩沢昌貞(読み)しおざわまささだ

改訂新版 世界大百科事典 「塩沢昌貞」の意味・わかりやすい解説

塩沢昌貞 (しおざわまささだ)
生没年:1870-1945(明治3-昭和20)

経済学者。関恒昌の次男として茨城県に生まれ,のち塩沢元孝の養子となる。栗田寛について国漢学を修めたのち,早稲田大学の前身東京専門学校英語政治科に学び,1891年卒業。1896-1900年アメリカのウィスコンシン大学留学,R.T.イーリー指導下に経済学を専攻,ドクター・オブ・フィロソフィーの学位を得,さらに1901-02年ドイツに留学,ハレ大学ではJ.コンラートにつき,またベルリン大学ではA.H.G.ワーグナーおよびG.シュモラーについて経済学と財政学を研究した。02-43年早稲田大学で経済学を講じ,この間1921-23年学長(1923年総長・学長制から総長制への移行で第2代総長)に就任した。1907年の社会政策学会第1回大会での講演は学界に注視され,26年協調会付属社会政策学院が創設されるとその院長に推された。1909年法学博士。34年帝国学士院会員。大隈重信知恵袋と呼ばれ,また〈著書のない大学者〉として有名であったが,とくに労働問題については,すでに明治年間において卓抜見解を述べている。
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20世紀日本人名事典 「塩沢昌貞」の解説

塩沢 昌貞
シオザワ マササダ

明治〜昭和期の経済学者 元・早稲田大学総長。



生年
明治3年10月20日(1870年)

没年
昭和20(1945)年7月7日

出生地
茨城県

旧姓(旧名)

学歴〔年〕
東京専門学校英語政治科〔明治24年〕卒,ウィスコンシン大学卒

学位〔年〕
哲学博士,法学博士〔明治42年〕

経歴
ウィスコンシン大で経済学を専攻、学位を得て明治33年帰国、母校で教え、34年ドイツのハレ、ベルリン両大学で経済学、財政学を研究。35年から母校早稲田大学の教務主任教授、政治経済学部長を務め、大正12年総長となった。この間中等教育検定試験委員、経済調査会委員、海軍経理学校教授などを兼任。またジュネーブ国際労働会議プラハの社会政策国際会議などにも出席。15年小作調査会委員、協調会付属社会政策学院院長、昭和7年日本学術振興会第3常置委員、9年帝国学士院会員。早大に30余年勤め、学園の父といわれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩沢昌貞」の意味・わかりやすい解説

塩沢昌貞
しおざわまささだ

[生]明治3(1870).10.20. 水戸
[没]1945.7.7. 伊東
経済学者。 1891年東京専門学校 (現早稲田大学) 英語政治科卒業後,アメリカ,ドイツに留学。ベルリン大学では A.ワーグナーおよび G.シュモラーについて財政学と経済学を専攻。 1902~43年母校で経済学を講じ,この間 11年政治経済学科長,21年学長 (22年より総長と改称) 。 23~42年政治経済学部長。また 26年社会政策学院院長,34年帝国学士院会員。 38年ジュネーブの国際労働会議,リヨンの国際連盟会議,プラハの社会政策国際会議などに出席。 40年日本の小作調査会委員。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塩沢昌貞」の解説

塩沢昌貞 しおざわ-まささだ

1870-1945 明治-昭和時代前期の経済学者。
明治3年10月20日生まれ。アメリカ,ドイツに留学後,早大で経済学をおしえ,大正12年同大学総長に就任。大隈重信の知恵袋とよばれ,国際連盟協会国際会議の日本代表,協調会付属社会政策学院院長などをつとめた。昭和20年7月7日死去。76歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。東京専門学校(現早大)卒。旧姓は関。

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367日誕生日大事典 「塩沢昌貞」の解説

塩沢 昌貞 (しおざわ まささだ)

生年月日:1870年10月20日
明治時代-昭和時代の経済学者。法学博士;早稲田大学総長
1945年没

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