日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンラート」の意味・わかりやすい解説
コンラート(3世)
こんらーと
Konrad Ⅲ
(1093/94―1152)
ドイツ、シュタウフェン朝初代の神聖ローマ皇帝(在位1138~52)。シュワーベン大公フリードリヒの子。1116年以降フランケン大公。27年ザリエル朝断絶後、ザクセン大公ロタール3世が国王に選ばれたとき、反対派はコンラートを対立国王に推した。ロタールは37年死に際し、ウェルフェン家のハインリヒ傲慢(ごうまん)公(バイエルン・ザクセンの大公兼任)を後継者に指名したが、あまりにも強大な国王の出現を恐れていた諸侯たちは、改めてコンラートを国王に選んだ。その結果、彼は治世期間中、ウェルフェン家との対立に苦しまねばならなかった。38年傲慢公から両大公領を奪ったが、42年にはウェルフェン家と和解して、傲慢公の子、ハインリヒ獅子(しし)公にザクセン大公を返却せねばならなかった。第2回十字軍に加わり、小アジアに渡ったが、病を得て帰還、死に際し、甥(おい)のフリードリヒ・バルバロッサを後継者に指名した。
[平城照介]
コンラート(1世)
こんらーと
Konrad Ⅰ
(?―918)
中世ドイツ王国の初代国王(在位911~918)。ラーンガウ伯コンラートの子。906年父の死後、教会勢力の支持によりフランケン大公となる。911年ルートウィヒ幼児王の死により東フランクのカロリング王統が断絶したとき、ザクセン大公オットーの提唱によりドイツ国王に選出された。ただロートリンゲンだけはコンラートの王権を承認せず、西フランク王国と合体した。コンラートはその回復に努めたが成功せず、また毎年のように侵入を繰り返していたマジャール人に対しても、効果的な防衛を行うことができなかった。対内的には、教会勢力の支持を頼んで、諸部族大公権を抑え、王権の強化を試みたが、これもかえって部族大公の反発を招き、バイエルン大公アルヌルフとの戦いで致命傷を受けた。死に臨み、弟エーベルハルトに王権を譲ることをあきらめ、ザクセン大公ハインリヒを後継者に指名した。
[平城照介]
コンラート(2世)
こんらーと
Konrad Ⅱ
(990ころ―1039)
ドイツ、ザリエル朝初代のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1024~39)。シュパイアー伯ハインリヒの子。1024年ハインリヒ2世の死によりザクセン朝が断絶したのち、オットー1世の娘の曽孫(そうそん)にあたるコンラートが国王に選出された。教会勢力と結んで、部族大公の自立化を抑える、前王朝以来の帝国教会政策を踏襲したほか、下級封臣=陪臣層の封に対する世襲権を承認することで、封建大諸侯の勢力をそぎ、ミニステリアーレス層を登用して、王領地の管理運営にあたらせるなどザリエル朝王権の基礎を強化し、シュワーベン大公エルンストの反乱も難なく鎮圧した。対外的には1033年ブルグント王国を合併し、またボレスラフ・クロブリイ死後のポーランドの混乱に乗じてラウジッツを奪回した。
[平城照介]