1510年,朝鮮の三浦で起きた日本人の反乱。1426年,日本船の朝鮮での停泊地は富山浦(釜山)・薺浦(せいほ)(熊川)・塩浦(蔚山)の三浦とされ,朝鮮側はここに倭館を置いたが,はじめ日本人の三浦居住は認めなかった。しかし日本からの渡航船が増大するにつれ,三浦の長期滞在日本人が増大し,1436年,李朝政府は日本人の三浦居住を認め恒居倭人と呼んだ。恒居倭人は日本船の入港に伴ってさまざまの商取引に従事し,60戸(206名)までとされたが,実際には制限数の7~8倍にものぼるようになった。李朝は公貿易のほかに私貿易も認めており,恒居倭人は私貿易で莫大な利益を得ていたが,私貿易の際に禁制品を扱う密貿易が絶えないため,1494年,私貿易を禁止した。私貿易が禁止されて一番困ったのは対馬島民であり,生活に窮した彼らは恒居倭人と結び密貿易に走るが,李朝政府がこれを厳しくとりしまると,三浦の恒居倭人は対馬島主宗氏の応援を求め,反乱を起こした。宗氏は200余隻の軍船を送って応援し,反乱日本人は富山浦・薺浦の軍事拠点を占領,役人を殺害したりしたが,朝鮮軍の反撃をうけ,日本側の敗北に終わった。これが三浦の乱である。この結果,対馬と朝鮮の通交はいっさい断絶し,宗氏発行の文引をもつ船もいっさい渡航不可能となった。1512年,壬申約条で通交は再開されたが,対馬からの歳遣船は半減,交易も薺浦のみとされ,日本人の三浦居住は禁止された。
→日朝貿易
執筆者:矢沢 康祐
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朝鮮の三浦に居住していた日本人が1510年に起こした反乱。1426年以来、日本と朝鮮の貿易は三浦(富山浦(ふさんぽ)=釜山(ふさん)、薺浦(せいほ)=熊川、塩浦(えんぽ)=蔚山(うるさん)の3港)で行われ、三浦には貿易などに従事する日本人が多数居住していた(恒居倭人(こうきょわじん))。当時、日朝貿易には、外交使節の贈答品、政府買上げの公貿易、政府監督下の私的貿易(私貿易)の3形態があり、なかでも私貿易は利益が大きく、盛んであった。しかし私貿易は禁制品の密貿易を伴いがちであり、種々の弊害が生まれたため、朝鮮政府は1494年、私貿易を最終的に禁止した。すると、対馬(つしま)島民や三浦の恒居倭人は密貿易に走り、朝鮮政府がそれを厳しく取り締まると、1510年、三浦の恒居倭人が反乱を起こした。このとき、対馬島主の宗(そう)氏は200余隻の軍船を送ってこの反乱を支援したが、朝鮮軍の反撃を受け、反乱は鎮圧された。これが三浦の乱である。この反乱のあと、対馬と朝鮮の通交はまったく断絶した。その後、対馬側の要請で1512年壬申(じんしん)約条を結び、対馬と朝鮮の通交は再開されたが、対馬の貿易船は半減され、三浦の恒居倭人もいっさい禁止され、貿易港も薺浦だけとされた。
[矢澤康祐]
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庚午(こうご)の変とも。1510年(永正7)朝鮮の三浦(薺浦(せいほ)〈乃而浦(ないじほ)〉・富山浦(ふざんほ)〈釜山〉・塩浦(えんぽ))で日本人のおこした争乱。15世紀末,朝鮮側の公貿易制限に対する密貿易が増加し,三浦は無法に近い状態になった。朝鮮国王中宗は,三浦を管轄する官人を刷新し,貿易の諸規定を厳守させるが,官人は三浦の恒居倭人(こうきょわじん)の実情を無視した施策をとって不満を増大させた。10年4月4日,薺浦・富山浦の恒居倭人は,対馬島主宗盛順の代官宗盛親の指揮する対馬からの援軍をえて蜂起。熊川(ゆうせん)・巨済(きょさい)島(ともに現,慶尚南道)などを攻撃して朝鮮に和平を求めるが,4月19日薺浦,6月末に安骨浦(あんこつほ)(現,慶尚南道)で朝鮮軍に大敗。この乱により,朝鮮・対馬関係は断絶し,12年の壬申約条の成立で再開。
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