改訂新版 世界大百科事典 「日朝貿易」の意味・わかりやすい解説
日朝貿易 (にっちょうぼうえき)
日本と朝鮮との間の貿易。本項では狭義に対朝鮮王朝(李氏朝鮮)の貿易に限定して述べるが,通史的には〈朝鮮〉の項の〈日朝交渉史〉などを,現代の朝鮮民主主義人民共和国との日朝貿易については当該の国名項目を参照されたい。
日朝貿易の開始
日本と李氏朝鮮との交易は,李朝初代の太祖(李成桂)の代に始まる。1392年,高麗王に代わって朝鮮国王となった太祖は,鎮西探題今川氏や大内氏,足利将軍などに相ついで使者を送り,倭寇の鎮圧と交隣体制にもとづいた通交貿易の確立を要請した。そこで足利氏は,しばしば五山の僧を朝鮮に派遣し,朝鮮からは足利義政時代までに数回の通信使(朝鮮通信使)来日があり,両国の友好を深めていった。また管領や鎮西探題,中国の大内氏,九州の少弐・大友・菊池・島津の諸氏,対馬島の宗氏,その他各地方の豪族や倭寇の首領等で,朝鮮から官職を与えられた者(受職人(じゆしよくにん))などに至るまで独自に使者を派遣し,朝鮮との交流を行った。朝鮮では,これら日本からの使者を客倭と称し,単独に貿易だけを目的とする者(商倭,または興利倭人)と区別して取り扱い,米,豆などの食糧贈給に応じたり,格によっては上京を許して厚く接待するなどの優遇策をとった。交易方法は,献上物の贈答形式をとる進上・回賜,朝鮮に産しない特定の品物を一定の価格で取引する官営の公貿易,品目・数量に制限なく自由に取引する私貿易があった。このうち私貿易は,密貿易や国家機密の漏洩などの弊害が伴ったため,後には禁止されることが多くなった。輸出品は,大別すると鉱山物(銅,スズ,硫黄など),国内工芸品(漆器,屛風,扇など),東南アジア産品(コショウ,ミョウバン,蘇木(そぼく),犀角,白檀,沈香など)であったが,足利氏の輸出品は国内工芸品が多く,対馬島宗氏は東南アジア産品が多いなど,交易者の地域的特性によって内容が異なっていた。輸入品は,米,豆,織物類(麻布,綿布など)が多く,ほかにニンジン,花蓆,皮類(トラ,ヒョウなど),種子(松の実,榛子など),あるいは日本側の要請により,大蔵経・仏具・朝鮮本が贈られることがあった。
対馬島宗氏の独占
やがて朝鮮貿易の利益に目をつけ,日本からの渡航者が増大したため,応接する朝鮮側の負担が大きくなったので渡航者の制限がはかられるようになり,朝鮮ではとくに地理的に最も近い対馬島の宗氏の特殊権益を認めることによって,統制化を進めていった。1443年(嘉吉3)宗氏との間で歳遣船50隻を定約した嘉吉条約(癸亥(きがい)約条),渡航証としての文引(ぶんいん)(図書・文引)の制度強化などがそれである。これによって,日朝間に占める宗氏の位置は決定的なものとなり,一方,諸大名・豪族等の勢力が後退して,それらの名義を借りた偽使が対馬から派遣される状態になっていった。日本からの渡航者は,はじめ南沿岸の浦所に随時停泊して交易を行うことを許されていたが,これもやがて朝鮮側が開港場を指定し,そこに応接所兼交易所(倭館)を設けて,他港への出入りを禁じた。開港場は,富山浦,薺浦(せいほ),塩浦の3ヵ所で,これを三浦(さんぽ)と称する。ところが1510年(永正7)ここの日本人定住者による暴動事件(三浦の乱)が起こり,日朝貿易は一時的に断絶した。そこで宗氏は,足利将軍(日本国王)の名目をかりた使者を派遣し,ようやく貿易再開にこぎつけたが,このとき歳遣船は25隻,開港場も薺浦1ヵ所に限られるという厳しい条件がつけられた。貿易利潤の減少は,対馬島民の死活問題であり,宗氏は以後,復旧工作に全力をあげ,機会あるごとに派遣船数の増加につとめた。この過程で,島外の受図書人(実印を受けて渡航を許可された者),受職人の名義が対馬へ集中し,16世紀後半に至るころには,日朝貿易の利益を独占している状態であった。
近世の貿易協定
日朝間に占めていた対馬の特殊権益は,文禄・慶長の役勃発によって断絶する。役後8年間にわたる困難な講和交渉の末,1607年(慶長12)朝鮮国王の使者が来日し,徳川氏による交隣関係の回復がはかられた。これによって対馬からの通交貿易も,09年己酉(きゆう)約条締結とともに開始され,宗氏の特殊な位置が,近世に至ってもなお継続されることになった。しかし今回の条約により,歳遣船が20隻に減らされ,本来はこの定約外にあった特送船(特殊な任務をおびて派遣される使船)も3隻に限られ,歳遣船数の内に入れられてしまった。また戦前対馬に集中させた受図書人などの渡航もすべて中止され,新たに認められた数名の者のみが交易を許されるなど,かつてない厳しい制限がつけられてしまった。そこで1艘の船を2回往復させる再渡(さいと)や,本船に副船(二号船)や水木船をつけて航行させることが行われ,実質的な渡航回数の増加がはかられた。貿易方法は,中世同様,進上・回賜,公貿易,そして使者を上京させない代りに私貿易が許されたが,1635年(寛永12)に成立した兼帯の制によって,一変した。まず進上は封進(ふうしん)と改名し,別紙目録に物資名だけを記入して進献の儀式を省いた。品物は,公貿易といっしょに適宜倭館へ送り,年1回の決算期に一定の交換率で公木(こうぼく)(木綿のこと)に換算して支給された。これらの処理には,対馬から派遣された代官と,朝鮮側の通訳官が当たった。
ところでこの制度は,本来朝鮮側の応接費削減のため案出されたもので,使船1艘ごとに行われていた儀式を,数回にまとめて行うこととし,その結果,使船が年間8回(八送使(はつそうし))に整理された。兼帯の制はこの過程で生まれたもので,ここでもとは一体化されていた外交儀礼と交易業務が分離し,そこからさらに新しい仕法を生むこととなった。その一つが,1651年(慶安4)成立した,換米(かんまい)の制である。これは,封進・公貿易で輸入される公木1100束のうち,300束を1万2000石の米にかえて輸入するもので,兼帯の制施行によってはじめて可能となった方法である。公木の換米は,その後,量が追加され,また残りの公木も,日本の綿業発達によって国内に運んでも利益が薄くなったことから,いったん受け取ったうえで,私貿易において再輸出されることが多くなった。
私貿易の隆盛と銀の流出
私貿易は,月の3と8のつく日に計6回,倭館の開市大庁で市が開かれ,貨物が多く集まれば別市が開かれた。朝鮮商人と,対馬の役人や商人との相対取引であるが,品目・数量の制約がなく,また兼帯の制成立後,貨物輸送が合理的になったため,しだいに取引量が増加していった。そこで対馬藩では,私貿易経営に重点をおき,1683年(天和3)専任担当官として元方役(もとかたやく)10名を組織し,利潤の向上につとめた。貿易内容は,封進・公貿易が銅,スズ,コショウ,ミョウバン,蘇木,水牛角を定品として輸出していたのに対し,私貿易は,隆盛するにしたがって大量の銀が輸出され,代りに中国産の生糸(白糸),絹織物,チョウセンニンジンが輸入されるようになった。この中国産品は,朝鮮が毎年中国へ派遣する朝貢使節がもたらすもので,日本の銀(倭銀)はその対価として,朝鮮から中国へ再輸出された。
1686年(貞享3),幕府は長崎に発令した御定高仕法(貞享令)の一環として,対馬藩の日朝貿易を銀額にして年間1080貫目に限り,1700年(元禄13)には貨幣改悪による純分低下を見込んで,1800貫目とした。しかし対馬藩では,貿易が外国(釜山の倭館)で行われることを幸いに,この制限令を守らず,最盛期(1690年代)には私貿易だけで総額6000貫目近い取引を行い,その半分くらいを占めていた銀の輸出は,同時期の長崎貿易にくらべてはるかに大量であった。しかしここで交易された銀は,ごく初期を除いて,すべて国内通用貨幣である丁銀(ちようぎん)があてられていたことから,元禄・宝永期の悪鋳時代(1695-1714)に,私貿易の停滞を招いた。そこで藩財政の低下という重大局面にたった対馬では,良質な銀貨の鋳造を幕府に請願し,1710年(宝永7)毎年1417貫目余の丁銀を京都銀座で鋳造することを許可された。朝鮮貿易用のみに使用されたこの銀貨は,当時の貴重薬チョウセンニンジンの輸入保護の名目で鋳造されたため,幕府および銀座では,これをとくに人参代往古銀と称して一般通貨と区別し,また対馬藩が朝鮮へ輸出する時点では,特鋳銀と呼んでいた。その品位は,100分中80で,慶長丁銀と同品位,これと当時の通貨(四ッ宝銀=品位20)と無償で同額交換することも特別に許された。人参代往古銀は,その後国内に良質な通貨(正徳・享保銀)が出回ったため,いったん鋳造が中止されるが,1736年(元文1)再び通貨が悪鋳されたため,翌年鋳造・輸出が再開された。しかし対馬藩経由による大量の銀流出を憂慮した幕府は,これを機会に通用銀との無償引替えを中止し,その他さまざまな手段を用いて銀輸出の途絶をはかった。やがて往古銀は,1754年(宝暦4)500貫目の引替えをもって鋳造を停止し,朝鮮への銀輸出が終わる。
銀に代わる銅輸出
以後,銀に代わって輸出の中心になったのが銅である。銅は,長崎貿易における銀の代用品として盛んに輸出され,1701年(元禄14)以降,幕府は大坂に銅座を設置したことから,朝鮮貿易の輸出銅は,かえって調達を規制された。そのうえ,13年(正徳3)ごろより輸出定額を10万斤とされたため,対馬藩は朝鮮国の鋳銭を理由に増額をはかった。銅は,私貿易だけでなく公貿易の輸出定品とされており,それも荒銅(山元で精錬したもの)があてられていたことから,品質一定のため,大坂の吹屋泉屋吉左衛門(住友家)から一手に買い付けていた。泉屋は当時有力な別子銅山の経営者でもあり,公貿易に指定された別子荒銅はとくに看品銅(かんぴんどう)と称され,朝鮮の鋳銭原料や兵器,銅器皿,仏具などに広く用いられた。対馬藩は銀の輸出途絶後,銅輸出を中心に貿易経営を行い,ときには定額増加を許されて金銀の逆輸入をはかったこともある。しかし近世後期における貿易不振は避けられず,理由をつけては幕府から下賜金や拝借金を受けて,経営を続けるありさまであった。
執筆者:田代 和生
近代--日本の朝鮮支配へ
近代以降の日朝貿易は1876年の日朝修好条規,同付録,日朝通商章程で再開されるが,日本は治外法権,低額関税,金などへの免税権,開港地での日本貨幣使用権などに支えられ,朝鮮を経済的にも侵略した。初めは日本が朝鮮貿易を独占したが,1882年以降,清国商人も参加しはじめ,日本と清国の対立・抗争がしだいに激化し,やがて日本の朝鮮支配権獲得を意図した日清戦争が開始される。この間,開港地は初め釜山のみであったが,やがて元山,仁川へと拡大され,1890年代後半には木浦,南浦,群山,平壌も開港・開市された。また,日本人の通行区域も初めは開港地4km以内であったが,これもやがて20km,続いて40kmへと拡大され,1885年には朝鮮における内地行商権を日本は獲得した。日朝貿易に従事する日本商人は,初め対馬や西日本の零細商人が多く,資力の弱い彼らは暴力行為を伴いつつ,日本の経済侵略の先兵的役割を果たしていったが,しかし貿易の実権は第一銀行支店をバックとする政商など大商人がにぎり,日清戦争後は大阪の大商人が実権を完全に掌握した。そして貿易品は朝鮮からは米,大豆,金地金など,日本からはおもに綿製品がそれぞれ輸出された。ただし,日清戦争後に日本は産業革命に成功し,それ以後,日本産の綿布,綿糸の対朝鮮輸出を行うようになるが,それ以前の対朝鮮輸出綿製品はもっぱらイギリス製の綿布であり,日本は中継貿易をしていたにすぎなかった。その一方で朝鮮から安価に大量の穀物を輸入(おもに阪神地域の労働者に供給)し,日本資本主義のための低賃金維持に役だてた。他方,大量の朝鮮産の金地金は,日清戦争における清国からの多額の賠償金とともに,日本における金本位制確立のための準備金の一部として重要な位置を占めた。
こうして朝鮮は日本資本主義のための食糧・原料供給地,商品販売市場とされ,日本の半植民地に転化されていくが,米,大豆の大量移出は朝鮮における穀価高騰をもたらし,また,安価な機械製綿布の大量移入は朝鮮における綿織物家内手工業を破壊した。そしてこの二重の要因が朝鮮の民衆,とりわけ貧民層の生活を困窮化させ,壬午軍乱,防穀令事件,甲午農民戦争などの民族的抵抗を生みだす重要な原因となった。しかし日本はさらに日露戦争において朝鮮を保護国とし,その特権のもとに,朝鮮を食糧・原料供給地,日本商品の販売市場として,いっそう略奪を深め,支配を強化したのである。
執筆者:矢沢 康祐
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