壱部浦(読み)いちぶうら

日本歴史地名大系 「壱部浦」の解説

壱部浦
いちぶうら

[現在地名]生月町壱部浦

一部いちぶ村の南東にある。浦北・浦中・浦南からなり、浦北に白山はくさん恵比寿えびす、浦南に正前しようぜん宮田みやた里浜さとはまがある。浦北・浦南に恵比寿神社が鎮座。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では生属いきつき村の浦分として一部浦とある。

〔益富捕鯨〕

江戸時代は捕鯨の根拠地で、捕鯨業の祖といわれる益富又左衛門(はじめ畳屋を称する)にちなみ益富捕鯨と称された。生月島の益富組は享保一〇年(一七二五)に平戸の商人田中長太夫と最合で夫突組を始め(同一一年に長太夫は手を引く)、はじめたち浦の姫宮脇に納屋を置いていたが、同一四年崎に拠点を移している(嘉永二年「先祖山県氏系譜」益富家文書など、以下断りのない限り同文書)。同一八年網組による操業を開始、全盛期の使用船数二〇〇余艘、加子三千人余を擁して捕鯨にあたり、享保年間から万延年間(一八六〇―六一)までの間に二万一千七〇〇頭を捕獲し、水揚高三三〇万両(七千六〇〇両を上納)平戸藩への献金は一万五千両にのぼったという(昭和二六年「平戸学術調査報告」など)。文化一〇年(一八一三)五月、伊能忠敬の一行は生月島の一部浦に到着、益富又左衛門分家畳屋又右衛門・益富三郎兵衛などの宅に止宿、同分家は二六軒あり、捕鯨を生業とし、富家で諸国に聞えていた(伊能忠敬測量日記)

〔鯨組と納屋〕

文政年間(一八一八―三〇)益富家が製作したとされる「勇魚取絵詞」によれば、捕鯨の組織は、漁場で鯨を捕獲する沖場と、出漁前の諸準備および捕獲鯨の解体・加工を行う納屋場に分れる。沖場の作業内容は組出日・沖備、鯨の捕獲日・名称・大きさ、鯨商品の量などが記録された(文政一二年大漁日録など)。納屋の経営はたとえば壱岐での捕鯨の場合、鯨の部位ごとに解体する専業経営体として複数の小納屋が置かれ、大納屋である益富家はこれらの小納屋と契約する形態をとり、その鯨産品の取り分は大納屋が四、小納屋が三で、小納屋の割合は大きいが、大納屋の取り分は鯨油・鯨髭など商品需要の高いものの割合が多い(安永六年「前目勝元鯨組永続鑑」長崎図書館蔵)。宝暦一〇年(一七六〇)の組方納銀差引帳によれば、鯨関連の運上銀は浦請銀(年銀三〇貫)の定額上納分、鯨の捕獲高と鯨の種類に応じた運上銀、および捕獲高に比例して運上油代からなり、たとえば背美鯨一本につき運上銀二貫二五〇匁、油運上銀は鯨油一〇〇挺となっていた(安永六年前目勝元鯨組永続鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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