日本歴史地名大系 「壱部浦」の解説
壱部浦
いちぶうら
〔益富捕鯨〕
江戸時代は捕鯨の根拠地で、捕鯨業の祖といわれる益富又左衛門(はじめ畳屋を称する)にちなみ益富捕鯨と称された。生月島の益富組は享保一〇年(一七二五)に平戸の商人田中長太夫と最合で夫突組を始め(同一一年に長太夫は手を引く)、はじめ
〔鯨組と納屋〕
文政年間(一八一八―三〇)益富家が製作したとされる「勇魚取絵詞」によれば、捕鯨の組織は、漁場で鯨を捕獲する沖場と、出漁前の諸準備および捕獲鯨の解体・加工を行う納屋場に分れる。沖場の作業内容は組出日・沖備、鯨の捕獲日・名称・大きさ、鯨商品の量などが記録された(文政一二年大漁日録など)。納屋の経営はたとえば壱岐での捕鯨の場合、鯨の部位ごとに解体する専業経営体として複数の小納屋が置かれ、大納屋である益富家はこれらの小納屋と契約する形態をとり、その鯨産品の取り分は大納屋が四、小納屋が三で、小納屋の割合は大きいが、大納屋の取り分は鯨油・鯨髭など商品需要の高いものの割合が多い(安永六年「前目勝元鯨組永続鑑」長崎図書館蔵)。宝暦一〇年(一七六〇)の組方納銀差引帳によれば、鯨関連の運上銀は浦請銀(年銀三〇貫)の定額上納分、鯨の捕獲高と鯨の種類に応じた運上銀、および捕獲高に比例して運上油代からなり、たとえば背美鯨一本につき運上銀二貫二五〇匁、油運上銀は鯨油一〇〇挺となっていた(安永六年前目勝元鯨組永続鑑)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報