日本大百科全書(ニッポニカ) 「多々良浜の戦い」の意味・わかりやすい解説
多々良浜の戦い
たたらはまのたたかい
1336年(延元1・建武3)3月2日、筑前博多(ちくぜんはかた)(福岡市)の東郊多々良川河口砂浜における足利尊氏(あしかがたかうじ)方と九州南朝方の合戦。北畠顕家(きたばたけあきいえ)の奥州軍に敗れた尊氏が、兵庫から鎮西(ちんぜい)に下った同年2月、後醍醐(ごだいご)天皇方に属し、中央で闘う惣領(そうりょう)菊池武重(たけしげ)の留守を預かる武敏(たけとし)は筑後(ちくご)に侵攻し、阿蘇(あそ)大宮司惟直(これなお)、秋月種道(あきづきたねみち)らとともに28日には大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)を占領。翌日には少弐貞経(しょうにさだつね)を有智山(うちやま)城(太宰府市内山宝満(ほうまん)山)に敗死させ、ついで博多に入り、3月2日宗像(むなたか)方面から南下する尊氏や少弐頼尚(よりひさ)の軍と会戦した。3万とも6万ともいわれる菊池軍であったが、風下に陣したため砂塵(さじん)を浴びて苦戦し、松浦(まつら)党などの寝返りもあってついに敗北、惟直・惟成兄弟は肥前祇園(ひぜんぎおん)山(佐賀県小城(おぎ)市)で、種道は大宰府で討ち取られ、武敏はようやく本拠に逃れた。この合戦の勝利で尊氏は九州軍士の信望を集め、再起、東上を果たすことができた。
[工藤敬一]