少弐頼尚(読み)しょうによりひさ

精選版 日本国語大辞典 「少弐頼尚」の意味・読み・例文・類語

しょうに‐よりひさ【少弐頼尚】

  1. 鎌倉・南北朝時代武将。貞経の子。九州探題北条英時を討ったのち、足利尊氏の反乱に呼応して、菊池武敏を破り、近畿各地で転戦。一時直冬方に属し、のち幕府方に復帰するが、延文四=正平一四年(一三五九)懐良親王らの南朝方と戦って破れ勢力を失う。法名梅渓本道。永仁二~応安四年(一二九四‐一三七一

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改訂新版 世界大百科事典 「少弐頼尚」の意味・わかりやすい解説

少弐頼尚 (しょうによりひさ)
生没年:1294-1371(永仁2-建徳2・応安4)

南北朝時代の武将。貞経の子。大宰少弐,筑後守。1333年(元弘3)鎮西探題北条英時打倒に参加。36年(延元1・建武3)筑前多々良浜の戦に足利尊氏方として菊池武敏らを破る。34年末父から筑前・対馬豊前守護職等を譲与され,翌年新たに肥後国守護職等を得た。筑前を本拠とし,対馬は守護代宗氏に,豊前は守護代とした弟資経に,肥後は守護代饗庭氏などに任せて支配する。その管国経営は,九州探題一色氏に対して独自的で,ついに対立。観応の擾乱(じようらん)の際には反幕府方=足利直冬方に立ったため,守護職や所領をほとんど没収された。ただ豊前に対しては,守護代を西郷顕景に切り替え,宮方(征西府)の守護として活動を続ける。しかし同国の宇佐弥勒寺領大野井荘で押妨を続けたため,58年征西府から守護職を解任された。翌年武家方に復帰,筑後大保原で宮方と戦い筑後川の戦),幕府から筑前守護に補任された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「少弐頼尚」の意味・わかりやすい解説

少弐頼尚
しょうによりひさ
(1294―1371)

南北朝時代の武将。貞経(さだつね)の子。法名梅渓本通(ばいけいほんつう)。南北朝初期の筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・肥後(ひご)・対馬(つしま)の守護。大宰大弐(だざいのだいに)。1333年(元弘3・正慶2)父とともに鎮西探題(ちんぜいたんだい)北条英時(ひでとき)を筑前姪浜(めいのはま)(福岡市)に攻めて自殺させ、足利尊氏(あしかがたかうじ)西下の際にはこれを赤間関(あかまがせき)(山口県下関(しものせき)市)に迎え、多々良(たたら)浜(福岡市)の戦いにも出陣し、足利軍を勝利に導いた。ついで頼尚は尊氏に従い東上し、足利軍が楠木正成(くすのきまさしげ)を破った湊川(みなとがわ)(神戸市)の戦いでも功をあげ、室町幕府の成立に大きく寄与した。その後帰国し、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)期に足利直冬(ただふゆ)が九州に入ると、これを奉じて幕府方の一色範氏(いっしきのりうじ)(法名道猷(どうゆう))と対抗し、北九州における地盤を固めようとした。直冬が去るとふたたび幕府方として活動し、59年(正平14・延文4)筑後川の戦いで懐良(かねよし)親王、菊池武光(きくちたけみつ)らと戦い、大敗して大宰府に退いた。このあと家督を冬資(ふゆすけ)に譲り、晩年は京都で過ごした。

[上田純一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「少弐頼尚」の意味・わかりやすい解説

少弐頼尚
しょうによりひさ

南北朝時代の武将。大宰少弐,筑後守。貞経の子。初名は道尚,法名は海渓本道。父貞経とともに鎮西探題北条英時を襲撃して滅亡させ,足利尊氏が九州に西下するとこれを迎え,筑前国多々良川に菊池武敏らと戦い破った。その後九州における足利方の中心勢力として,征西将軍宮方と攻防を繰返したが敗れ,一時九州探題一色範氏とも対立し,さらに足利直冬を支持して範氏と戦った。再び征西将軍宮,菊池武光と死闘したが,正平 14=延文4 (1359) 年筑後大保原で武光に大敗し,以後勢力は衰えた。晩年については,(1) 大宰府を追出され豊後に逃れて,大友氏のもとに身を寄せた,(2) 京都に滞在した,(3) 建徳2=応安4 (71) 年 12月 24日 78歳で大宰府で討死にした,と諸説がある。 (→菊池氏 , 少弐氏 )

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「少弐頼尚」の解説

少弐頼尚
しょうによりひさ

1294~1371.12.24

鎌倉後期~南北朝期の武将。筑前・豊前・肥後・対馬各国守護。大宰少弐・筑後守。父は貞経。足利尊氏に属して敗死した父の後を継ぎ,九州にのがれた尊氏をたすけ,1336年(建武3・延元元)多々良浜(たたらはま)の戦で菊池武敏の軍を破る。「建武式目」の制定にも参画するが,尊氏の設置した九州探題一色範氏と対立。以後,尊氏と不和な実子直冬を奉じる。直冬が九州を去ってからは,南朝方の懐良(かねよし)親王・菊池武光と結び,一色範氏を破る。その後,再び幕府方となったが,59年(延文4・正平14)筑後国大保原(おおほばる)の戦で菊池武光に大敗後,勢力は衰退。61年(康安元・正平16)には本拠大宰府を占領され,豊後にのがれた。

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朝日日本歴史人物事典 「少弐頼尚」の解説

少弐頼尚

没年:応安4/建徳2.12.24(1372.1.30)
生年:永仁2(1294)
鎌倉末・南北朝時代の武将。大宰少弐,筑後守。法名は梅渓本通。貞経の子。筑前,豊前,肥前,肥後,対馬などの守護となる。正慶2/元弘3(1333)年父貞経と共に挙兵し,鎮西探題を滅ぼした。建武3/延元1(1336)年,足利尊氏が九州に下向するとこれを助け,共に上洛した。しかし筑前への帰国後は,尊氏が任命した九州探題一色氏と対立,観応の擾乱では足利直冬に味方した。延文4/正平14(1359)の筑後川の合戦で菊池武光に敗れ,勢力を失う。室町幕府の基本法である『建武式目』の制定関係者「大宰少弐」は頼尚とする説が有力。<参考文献>川添昭二『九州中世史の研究』

(佐伯弘次)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「少弐頼尚」の解説

少弐頼尚 しょうに-よりひさ

1294-1372* 鎌倉-南北朝時代の武将。
永仁(えいにん)2年生まれ。少弐貞経(さだつね)の子。筑前(ちくぜん),豊前(ぶぜん),肥後,対馬(つしま)の守護で,大宰(だざいの)少弐。足利尊氏をたすけ,筑前(ちくぜん)多々良浜(たたらはま),摂津湊川(みなとがわ)の戦いなどに従軍。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直冬(ただふゆ)に味方し,幕府方と抗争。のち南朝方の菊池武光とたたかって敗れ(筑後川の戦い),以後勢力は衰退した。応安4=建徳2年12月24日死去。78歳。法名は梅渓本通。

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世界大百科事典(旧版)内の少弐頼尚の言及

【少弐氏】より

…鎌倉時代から戦国時代にかけて九州で活躍した武家。元来武蔵国の出身で武藤氏を称したが,鎌倉時代の初め,武藤資頼(すけより)が鎮西奉行として九州に下向し,大宰府に居を構えて代々大宰少弐を世襲したため,少弐氏と称された。資頼は筑前,豊前,肥前,壱岐,対馬の守護を兼ね,その後資能,経資,盛経,貞経と続いた。経資はモンゴル襲来に際して日本軍の統率にあたり,襲来後に設置された鎮西談議所や訴訟を扱う合議機関では中心的な地位にあった。…

【筑後国】より

…55年宮方は筑前に攻め入り,一色氏は長門に逃れた。59年(正平14∥延文4)8月,幕府方の少弐頼尚と宮方の菊池武光の両軍が当国大保原(おおほばる)に戦い,少弐氏は大軍にもかかわらず敗北した(筑後川の戦)。63年(正平18∥貞治2)9月には大友氏時が幕府から当国守護に補任され,守護職はそのまま子の氏継に伝えられた。…

【筑前国】より

…範氏はたびたび帰京を幕府に願い出たが許されなかった。49年(正平4∥貞和5)の足利直冬の下向後,九州は幕府方,宮方,直冬方に3分されたが,直冬は知行宛行・安堵を通して国人層の結集を図り,少弐頼尚も直冬に味方するなど,当国では直冬方が優勢であった。51年(正平6∥観応2)ころ,少弐頼尚は守護職を室町幕府から解任され,かわって一色直氏が補任された。…

※「少弐頼尚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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