室町幕府が九州統制のため博多においた職,広域行政機関。初めは鎮西管領,鎮西探題とも称される。1336年(延元1・建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経,渋川義行,今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。
初代鎮西管領一色範氏は,一族を軍事指揮者として九州各国に派遣したが,46年(正平1・貞和2)子息直氏を下向させ,以後は父子一体となってその政務をとる。続いて49年,中央幕府政局における二頭政治対立の影響で,足利直義の猶子直冬(尊氏の庶長子)が西下。また前年の征西将軍宮懐良親王の下向もあって,九州地方の政治的勢力関係は,幕府方(尊氏-鎮西管領一色氏),直冬方,宮方(南朝-征西府)という三者鼎立となり,いわゆる観応(かんのう)の擾乱につながる。概して直冬方が最優勢といえるが,南九州守護島津氏は幕府方に立ち,北九州守護少弐氏は直冬方,中九州の肥後守菊池氏は宮方であった。その間,51年(正平6・観応2),尊氏・直義の一時的和睦によって,直冬が正式に鎮西探題となる。しかし翌年の直冬,55年一色氏の,相つぐ九州退却により,以後60年代にかけて九州は征西府-菊池武光を中核とした宮方の隆盛期を迎える。60年代幕府側も斯波氏経,渋川義行を探題として一応任命したが宮方勢力の前に食い込むことができず,とくに渋川義行は任地九州に一歩も足を入れられなかった。やがて70年(建徳1・応安3)九州探題に今川貞世(了俊)が任命され,翌年九州に下向。了俊は,まもなく諸勢力を結集,大宰府,征西府を占領,懐良親王を奉じる菊池氏を本拠肥後に撤退させた。以後九州において幕府方が優勢となる。ただこれら九州探題は,いずれも外来系権力のため,管内において料所などは僅少で,経済的基盤が脆弱であった。それを補うべく,例えば一色範氏は盛んに闕所地処分を行ったが,本主勢力の存在によって遵行困難であり,今川了俊は寺社領に広く半済(はんぜい)を施行して給人に預け置き,とくに大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握した。
動乱期の九州探題としては一色範氏,足利直冬,今川了俊の3者が代表といえるが,彼らの発給文書の様式はおのおの特徴をもち類型化できる。すなわち最初の一色氏のものは御教書(みぎようしよ)(書止文言〈仍執達如件〉=奉書系,官僚系),つぎの足利直冬は下文(くだしぶみ)(将軍系),今川了俊のものは書下(かきくだし)(書止〈状如件〉,守護系)である。おのおのの出自の違いに対応しており,九州経営に対するそれぞれの性格の相違につながるものといえよう。一色範氏の場合,文書発給の源泉は将軍に存し,あくまでその下で純粋な官僚にしかすぎなかったといえよう。直冬は,下文を多く発していることに注目でき,この点,他の九州探題の場合には全然みえず,上部権力の存在をあまり必要としない存在(将軍的)を象徴していよう。今川了俊の文書は,おおむね直状(じきじよう)様式をとり,一色範氏の場合と比較されるが,今川氏が代々遠江,駿河を本拠とした守護であるという,その出自によろう。了俊は単なる探題=官僚的側面のみではなく,当初から濃厚な守護→分国的要素を担いつつ九州経営に臨んだ。了俊は,九州在来の諸勢力に対しては将軍の分身観を背景にして〈直の忠〉を強要するが,実は早く九州諸国のほとんど(豊後,対馬以外)を〈分国〉化,それらへ一族・譜代被官を守護・大将・守護代として派遣し,みずからは〈分国〉主として探題府筑前に滞在,領国形成の意欲旺盛であった。とくに,探題府に隣接した大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握したことは重要である。これは筑前国衙の掌握をも意味し,同寺宮領は九州第一の穀倉地帯筑紫平野に集中的に分布する。了俊は,そこを半済給人(一族・被官ら)に預け置くが,一方,在地における調停者として領家側(菅原氏)と共存して同寺宮領の擁護に努め,さらに経済的権益の増加をねらい,これを基礎として九州全域への領国形成の拠点とした。
了俊はそのほか肥前における国衙在庁・一宮掌握,南九州における国人一揆の形成に関与している。領国形成志向の旺盛さは,もちろん,在来守護層との関係も切迫させる。75年(天授1・永和1)肥後水島で少弐冬資を誘殺したため,以後,島津氏久との関係が緊張したことは,その代表的例といえよう。両朝合一まもない95年(応永2),彼が探題職を解任されたのもこの辺に大きな原因があろう。有能な了俊は,中央幕府にとって,もはや危険な存在となっていた。了俊解任により,渋川満頼が九州探題に任命され,以後,代々渋川氏(満頼,義俊,満直,教直,万寿丸など)が当職につき,一族・被官などを使って日鮮交渉に努めたりする。しかし早くも義俊のとき,1423年(応永30)少弐満貞に敗れてから,探題勢力は急速に衰え,その拠点筑前を失い,東肥前の一局地勢力にすぎなくなり,その存在意義を失ってしまう。
→室町幕府
執筆者:山口 隼正
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室町幕府が九州統制のために設けた職。1336年(延元1・建武3)九州に敗走した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、再挙東上する際、一色範氏(いっしきのりうじ)(法名道猷(どうゆう))をとどめて九州幕軍の最高責任者として九州経営にあたらせたのが始まりである。探題の権限は幕府方の武士に対する軍事指揮を中核とし、民事関係の訴訟については、相論の内容を調査して幕府に注進し、この裁定を施行することであった。範氏ののち子息直氏(なおうじ)が父とともに事にあたり、また足利直冬(ただふゆ)、斯波氏経(しばうじつね)らが九州探題の任についたが、南朝方の征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)(懐良(かねよし)親王)の軍に圧迫されて振るわず、1365年(正平20・貞治4)8月探題に任ぜられた渋川義行(しぶかわよしゆき)などは中国のあたりを往返するだけで、ついに九州に入ることができず、帰京するというありさまであった。しかし、1371年(建徳2・応安4)2月、今川貞世(さだよ)(法名了俊(りょうしゅん))が挙用されその任につくや、しだいに宮方を制圧し、九州経営が進められた。1396年(応永3)渋川満頼(みつより)がかわり、以後同氏が世襲したが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後はほとんど有名無実となった。
[上田純一]
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室町幕府の九州統治の責任者。はじめは鎮西大将軍や鎮西管領とよばれた。九州から反攻する足利尊氏が,1336年(建武3・延元元)一色範氏(道猷(どうゆう))を残したのが始まり。10年後,子の直氏が下向して権限を拡大したが,少弐(しょうに)・大友・島津氏の勢力が大きく,足利直冬(ただふゆ)・征西将軍宮懐良(かねよし)親王の下向による南朝勢力も伸長し,範氏は20年ほどで九州を退去。この間一時,直冬が鎮西探題を勤めた。のちの斯波氏経・渋川義行も成果をみなかったが,71年(応安4・建徳2)今川貞世(さだよ)(了俊)は南朝方を制圧して九州統治にあたった。95年(応永2)了俊解任後は渋川満頼以下代々渋川氏が任じられたが,北九州の一勢力にとどまった。
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…室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。九州を管領する九州探題,陸奥・出羽2国を管領する奥州探題とそれから分化して出羽1国を管領する羽州探題等である。このほか南北朝期の中国管領(中国探題)細川頼之や戦国期の羽柴秀吉の中国探題などの例もある。…
※「九州探題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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