佐賀県のほぼ中央部にある市。1954年(昭和29)北多久町と東多久、西多久、南多久、多久村の小城(おぎ)郡1町4か村が合併して市制施行。平安期『和名抄(わみょうしょう)』の郷名に「高来(たく)」、また『延喜式(えんぎしき)』に「高来駅」とある。有明(ありあけ)海に注ぐ六角(ろっかく)川の支流、牛津川(うしづがわ)水系の上・中流域に形成された盆地を中心に市域が広がる。JR唐津(からつ)線と国道203号が東西に通り抜ける。長崎自動車道多久インターチェンジと佐賀唐津道路(厳木(きゅうらぎ)多久道路、東多久バイパス)の多久原、小侍(こさむらい)の2インターチェンジがある。笹原(ささばる)峠を北西に越すと玄界灘(げんかいなだ)斜面である。市内多久町の御構内(ごこうない)(郭内(こうない))は、佐賀鍋島(なべしま)氏の親類同格多久氏の本拠地で、近世多久邑(ゆう)の中心。明治以降は炭鉱開発が台頭し、とくに第二次世界大戦後は三菱(みつびし)鉱業古賀山(こがやま)、明治鉱業佐賀などの大手炭鉱を軸に炭鉱ブームを展開、北多久町の小侍方面が市の中心部として発展した。炭界不況で1955年以降、市内の20ばかりの炭鉱も相次いで閉山し、1972年にすべて姿を消した。人口は激減し、産炭地振興に基づき積極的に工業誘致を進め、進出企業も20社以上に及んだ。平地に水田、傾斜地にミカン園が開け、天山(てんざん)と八幡岳(はちまんだけ)の両県立自然公園に囲まれ、田園工業都市づくりを目ざす。国指定史跡、国指定重要文化財の多久聖廟(せいびょう)は、春秋2回の孔子(こうし)を祭る釈菜(せきさい)行事でも知られる。「くど造り」の川打(かわうち)家住宅も国指定重要文化財。旧石器遺跡が数多く分布する。面積96.96平方キロメートル、人口1万8295(2020)。
[川崎 茂]
『『多久の歴史 本編・資料編』(1964・多久市)』▽『『多久市史』全6巻・人物編(2000~2008・多久市)』
佐賀県中央部の市。1954年小城(おぎ)郡の北多久町と東多久,西多久,南多久,多久の4村が合体,市制。人口2万1404(2010)。市域は有明海斜面北西部にある多久盆地を中心に広がり,中央を六角(ろつかく)川の支流牛津川が東・南流する。市の中心部をJR唐津線と国道203号線がほぼ東西に通り抜ける。古代の高来(たく)郷の地で,官道の高来駅も置かれた。江戸時代は佐賀藩鍋島氏の親類同格多久氏の領地で,中心は牛津川沿いの御構内(ごこうない)であった。明治以降は石炭採掘が盛んとなり,とくに第2次世界大戦後には三菱古賀山,明治佐賀などの大手炭鉱が開発され,JR多久駅,中多久駅付近の北多久町小侍(こざむらい)が中心部となった。しかし炭鉱不況のため1955年以降相次いで閉山し,72年にはすべて姿を消した。炭鉱跡に20社余の企業を誘致したが,さらに米作,特産のミカン,ビワなどをはじめとする農業の近代化とあわせて,田園工業都市を目ざしている。87年完成の長崎自動車道多久インターチェンジへの期待も大きい。天山(てんざん)と八幡(はちまん)岳の両県立自然公園に囲まれ,1708年(宝永5)に建立された孔子をまつる多久聖廟(史跡・重要文化財)は,春秋に伝統的な祭儀である釈菜(せきさい)が行われる。くど造りの川打家住宅(重要文化財),多久系古唐津の窯跡である保四郎窯跡(県史跡)などがある。
執筆者:川崎 茂
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