大保村
だいほむら
[現在地名]美原町大保
丹南郡に属し、今井村の東にある。東南部を中高野街道が通り、南の黒山村境に一里塚があった(寛政二年「大保村太井村今井村丹南村立会絵図」東京都立中央図書館加賀文庫蔵)。地名の起源を当地にあった泉福寺の山号大保山に求める説と、当地に住んだと伝える鋳物師の長が大保の官を賜ったからとする説の二説がある。読みは「河内鑑名所記」は「たいほ」とし、「河内志」は「オホホ」とする。現在は「だいほ」とよぶのが通例。小字名に鍋作・大明神・城山畑・東代一里塚・三百歩などがある。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)にみえる「河内国大富庄」を「オホホ」と読んで当地にあてる説がある(荘園志料・大阪府史)。同目録によると、同庄は後嵯峨上皇の御願寺京都浄金剛院領で、領家職をめぐって大納言源師重と京都建仁寺塔頭円寿寺が争っていたが、永仁六年(一二九八)三月一〇日の院庁下文により和解して、領家職の三分の二が師重、三分の一が円寿寺知行となり、双方合せて寺用二千疋を浄金剛院に納めることになった。
大保村
おおほむら
[現在地名]小郡市大保
宝満川中流の右岸に位置し、南は小郡町・大板井村に接する。天暦一〇年(九五六)藤原鎌足の子孫師輔の次男が当地の御勢大霊石神社の宮司となったが、父の死後の官位が太政大臣(唐名は大保)であることからその采地の村号としたという(「御原郡之内地誌」など)。文和二年(一三五三)大保又次郎跡の田地一〇町の地頭職などが勲功の賞として肥前国の綾部幸依に宛行われている(同年八月一一日「一色道猷宛行状写」綾部文書/南北朝遺文(九州編)三)。正平九年(一三五四)筑前嘉麻郡方面の一色範光討伐に向かう征西将軍宮懐良親王の軍勢に加わった草野永幸が大保の陣などで宿直警固に当たった(同年一一月日「草野永幸軍忠状写」歴朝要紀所収一井文書/南北朝遺文(九州編)三)。
大保村
だいほむら
[現在地名]飽田町並建・会富
北は孫代村、南は渋江村に接する水田地帯。慶長一二年(一六〇七)の検地帳では田方三八町九反九畝・畠方二〇町七反七畝二〇歩、分米六七二石余で、竈数四一・家数七三、男九八・女六九、牛二四、蜜柑一・桑三とあり、このほか、潟畠四町四反三畝余がある。「国誌」の上大保村の項に「吉祥寺村西田村等小村アリ」として、「大室山吉祥寺跡」とある吉祥寺は、吉祥寺・吉成寺とみえ、家四、男五・女三、牛一と二反四畝余の屋敷、田畠四町二畝余をもっている。
寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、上下に分れ、上大保村は嶋五郎左衛門手永に属し、高一九三石三斗余、下大保村は銭塘与兵衛手永に属し、高四七八石七斗余であったが、のち両村とも横手手永に属した。
大保村
だいぼむら
[現在地名]中之島村大保
品之木村の東に位置し、東には灰島新田の枝郷粕島がある。慶長一〇年(一六〇五)の新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)に村名がみえ、毛付二八石八斗余・荒一二七石五斗余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば物成高一八石八斗余、家数七・人数六二。
大保村
おおぼむら
[現在地名]奈良市大保町
柳生村南方の渓谷集落。「春日社記録」中臣祐春記の弘安六年(一二八三)一〇月一六日条に「大房」とある。なお、康保四年(九六七)の尊勝院根本取領員数(東大寺続要録)に「多富庄」とみえ、荘号からみると現大保町に比定され、東大寺尊勝院領荘園である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 