大出村
おおいでむら
[現在地名]箕輪町大字中箕輪 大出
天竜川の支流深沢川の下流の左岸、段丘上の村。村内を伊那往還が南北に走る。段丘上は水利に恵まれず地下水も低いが、段丘崖下は湧水が豊かで、大出の地名はこの湧水によるものか。東は天竜川。北は沢村、西は八乙女村。沢村の北の北大出村に対し、南大出村ともよんだ。
嘉暦四年(一三二九)三月、諏訪社上社の五月会・御射山の行事の頭役に、七番五月会分として「右頭、飯治・中越・大井弖三ケ郷地頭等」とみえる(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)。以来中世を通じて諏訪社上社に勤仕した郷村であった。
大出村
おおいでむら
[現在地名]中条町大出
村央を乙大日川(旧胎内川)が流れ、西は日本海沿いの砂丘が連なる。西は富岡村、東は小出新村に接する。正保国絵図に村名がみえ、高二〇〇石余とある。初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、翌七年再び村上藩領となる。享保二年(一七一七)幕府領に復した。宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内帳(高橋哲也氏蔵)によれば家数四八・人数三〇三・馬八・渡船一。天保九年(一八三八)の巡見使案内帳(大沼安在氏蔵)では本田畑三一町五反四畝余・新田一町九反余、家数七三(うち社家一・渡守四)・人数三三一・馬八、人馬渡船一。
大出村
おおいでむら
[現在地名]白馬村大字北城 大出
姫川沿岸で、姫川の支流松川のもたらした扇状地末端部に位置する村で、大出新田村ともよばれていた。
慶安二年(一六四九)の松本藩の検地帳(松沢寅雄氏蔵)によれば、村高五九石四斗三合四勺、役家一〇軒となっており、更に「信府統記」の「新田開発時節改」によれば、この時点で従来属していた飯田村から高分れして大出新田村となったことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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