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松本藩 まつもとはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松本藩
まつもとはん

江戸時代,信濃国 (長野県) 松本地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年石川数正小笠原氏の旧領に入封したのに始る。慶長 18 (1613) 年石川氏が除封され,代って小笠原秀政が同国飯田から8万石で再封。

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百科事典マイペディアの解説

松本藩【まつもとはん】

信濃(しなの)国松本に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の石川氏,譜代(ふだい)の小笠原氏・松平(戸田)氏,親藩の松平(越前)氏,譜代の堀田氏・水野氏・松平(戸田)氏と変遷。
→関連項目信濃国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

まつもとはん【松本藩】

江戸時代信濃(しなの)国筑摩(ちくま)郡松本(現、長野県松本市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は崇教館(すうきょうかん)。1590年(天正(てんしょう)18)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、石川数正(かずまさ)が入封(にゅうほう)、松本城は大改修され、現在国宝になっている天守閣はこのときつくられた。93年(文禄2)に長男の康長(やすなが)が8万石を継いだが、御家騒動大久保長安(ながやす)事件への関与で1613年(慶長(けいちょう)18)に改易(かいえき)され、飯田藩から小笠原秀政(ひでまさ)が8万石で入って以後は、譜代が短期間で交代した。小笠原氏2代のあと、17年(元和(げんな)3)から戸田(松平)康長(やすなが)・康直(やすなお)2代(7万石)、33年(寛永(かんえい)10)に松平(越前)直政(なおまさ)(親藩・7万石)、38年に堀田正盛(まさもり)(7万石)と続いた。42年からは水野忠清(ただきよ)以下水野氏6代が続き(7万石)、この間に藩政が整備された。1726年(享保(きょうほう)11)からは戸田(松平)光慈(みつちか)以下松平氏9代が6万石で明治維新まで続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で松本県となり、その後筑摩県を経て76年長野県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

まつもとはん【松本藩】

信濃国筑摩郡松本(現,長野県松本市)に藩庁を置いた譜代中藩。ただし初期の松平家は越前家分家で親藩。1590年(天正18)7月石川数正が松本城主となり,安曇・筑摩両郡8万石を領したのが藩の起りである。数正・康長2代の間に,太閤検地に相当する石直(こくなおし),天守築造,城下町拡張,宿駅整備をみたが,関ヶ原の戦後,年未詳の御家騒動と大久保長安に縁坐して1613年(慶長18)10月改易となった。その後,小笠原氏2代8万石,17年(元和3)から戸田氏2代7万石,33年(寛永10)から松平氏1代7万石,38年から堀田氏1代10万石(うち3万石は関東)がいずれも短期間在封し,その間寛永検地,城地拡張,15組行政制度への移行,高遠・諏訪両藩への各5000石割譲があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松本藩
まつもとはん

信濃(しなの)国(長野県)松本地方を領有した藩。長く守護大名小笠原(おがさわら)氏の領地であった安曇(あずみ)・筑摩(ちくま)両郡の地は、1550年(天文19)武田晴信(はるのぶ)の攻略を受け、以来武田氏、木曽(きそ)氏、ふたたび小笠原氏が相次いで支配したが、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の命により徳川家康および配下の諸大名が関東に移り、石川数正(かずまさ)が入封すると藩の規模も定まった。1592年(文禄1)子康長(やすなが)が襲封したとき約8万石であったが、1613年(慶長18)改易された。以後、小笠原氏(秀政(ひでまさ)、忠真(ただざね))、1617年(元和3)から戸田氏(康長(やすなが)、康直(やすなお))、1633年(寛永10)から松平氏(直政(なおまさ))、1638年から堀田(ほった)氏(正盛(まさもり))が相次いで在封、1642年から水野氏(忠清(ただきよ)、忠職(ただもと)、忠直(ただなお)、忠周(ただちか)、忠幹(ただもと)、忠恒(ただつね))、1726年(享保11)から戸田氏(光慈(みつちか)、光雄(みつお)、光徳(みつやす)、光和(みつまさ)、光悌(みつよし)、光行(みつゆき)、光年(みつつら)、光庸(みつつね)、光則(みつさだ))がそれぞれ在封して明治維新に及んだ。家門の松平氏のとき以外一貫して譜代(ふだい)大名領で、所領は、江戸宿老堀田氏の10万石を除き8万ないし6万石で、初期戸田氏のとき1万石を諏訪(すわ)高島、伊那高遠(いなたかとお)藩に割き、後期戸田氏のときさらに1万石を収公されて藩域は減少したが、のち、信濃国内の幕府領5万石余を預地(あずかりち)として管理した。石川氏の松本城天守築造、水野氏時代の諸制度整備と嘉助(かすけ)騒動、『信府統記(しんぷとうき)』編纂(へんさん)、改易、戸田氏時代の寛政(かんせい)・天保(てんぽう)の改革、第二次東禅寺(とうぜんじ)事件が著名である。明治維新ののち松本県となりついで筑摩県に編入され、1876年(明治9)長野県の一部となった。[金井 圓]
『金井圓著『近世大名領の研究――信州松本藩を中心として』(1981・名著出版) ▽信州大学教育学部歴史研究会編『信州史事典(1) 松本藩編』(1982・名著出版)』

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世界大百科事典内の松本藩の言及

【加助騒動】より

…1686年(貞享3)10月,信濃国松本藩に起こった百姓一揆で,中心人物が多田加助(嘉助)であったことからこの名がある。貞享3年が凶作であったことから,日ごろの重税の不満を5項目にまとめて庄屋連がまず奉行所に愁訴した。…

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