松本藩(読み)まつもとはん

改訂新版 世界大百科事典 「松本藩」の意味・わかりやすい解説

松本藩 (まつもとはん)

信濃国筑摩郡松本(現,長野県松本市)に藩庁を置いた譜代中藩。ただし初期の松平家は越前家分家で親藩。1590年(天正18)7月石川数正が松本城主となり,安曇・筑摩両郡8万石を領したのが藩の起りである。数正・康長2代の間に,太閤検地に相当する石直(こくなおし),天守築造,城下町拡張,宿駅整備をみたが,関ヶ原の戦後,年未詳の御家騒動と大久保長安に縁坐して1613年(慶長18)10月改易となった。その後,小笠原氏2代8万石,17年(元和3)から戸田氏2代7万石,33年(寛永10)から松平氏1代7万石,38年から堀田氏1代10万石(うち3万石は関東)がいずれも短期間在封し,その間寛永検地,城地拡張,15組行政制度への移行,高遠・諏訪両藩への各5000石割譲があった。藩政の整備をみたのは42年7月に三河国吉田から加増により入封した水野氏6代7万石の治世のときである。初代忠清は越後村上家その他の浪人をも抱え,馬廻6組の軍制を整え,2代忠職(ただもと)は慶安惣検地,人数牛馬帳作成,浅間・山家(温泉)別邸の営造で知られ,3代忠直は廟所玄向寺をおこし,幕府軍役に従い,文治政治を進めて財政規模を拡大して貞享加助騒動を招き,6代忠恒は1725年(享保10)江戸城内で毛利師就に刃傷を加えて改易された。25年以降は,寛永期在封の戸田氏が志摩鳥羽から来て9代6万石で在封した。初代光慈(みつちか)は本丸御殿を火災で失ったが仁政に努め,6代光行は藩学崇教館の設置など寛政改革に努めたが家中減知や領内御用金賦課を続け,7代光年(みつつら)のときは赤蓑騒動があり,8代光庸は,産物会所設置など天保改革に努める一方,御家騒動をも生んだ。9代光則(みつさだ)は第2次東禅寺事件など幕末政情の進展のなかで佐幕の立場に固執したが,1868年(明治1)官軍に帰順した。版籍奉還,藩制改革ののち71年松本県となり,ついで同年筑摩県に編入され,76年長野県に合併された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松本藩」の意味・わかりやすい解説

松本藩
まつもとはん

信濃(しなの)国(長野県)松本地方を領有した藩。長く守護大名小笠原(おがさわら)氏の領地であった安曇(あずみ)・筑摩(ちくま)両郡の地は、1550年(天文19)武田晴信(はるのぶ)の攻略を受け、以来武田氏、木曽(きそ)氏、ふたたび小笠原氏が相次いで支配したが、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の命により徳川家康および配下の諸大名が関東に移り、石川数正(かずまさ)が入封すると藩の規模も定まった。1592年(文禄1)子康長(やすなが)が襲封したとき約8万石であったが、1613年(慶長18)改易された。以後、小笠原氏(秀政(ひでまさ)、忠真(ただざね))、1617年(元和3)から戸田氏(康長(やすなが)、康直(やすなお))、1633年(寛永10)から松平氏(直政(なおまさ))、1638年から堀田(ほった)氏(正盛(まさもり))が相次いで在封、1642年から水野氏(忠清(ただきよ)、忠職(ただもと)、忠直(ただなお)、忠周(ただちか)、忠幹(ただもと)、忠恒(ただつね))、1726年(享保11)から戸田氏(光慈(みつちか)、光雄(みつお)、光徳(みつやす)、光和(みつまさ)、光悌(みつよし)、光行(みつゆき)、光年(みつつら)、光庸(みつつね)、光則(みつさだ))がそれぞれ在封して明治維新に及んだ。家門の松平氏のとき以外一貫して譜代(ふだい)大名領で、所領は、江戸宿老堀田氏の10万石を除き8万ないし6万石で、初期戸田氏のとき1万石を諏訪(すわ)高島、伊那高遠(いなたかとお)藩に割き、後期戸田氏のときさらに1万石を収公されて藩域は減少したが、のち、信濃国内の幕府領5万石余を預地(あずかりち)として管理した。石川氏の松本城天守築造、水野氏時代の諸制度整備と嘉助(かすけ)騒動、『信府統記(しんぷとうき)』編纂(へんさん)、改易、戸田氏時代の寛政(かんせい)・天保(てんぽう)の改革、第二次東禅寺(とうぜんじ)事件が著名である。明治維新ののち松本県となりついで筑摩県に編入され、1876年(明治9)長野県の一部となった。

[金井 圓]

『金井圓著『近世大名領の研究――信州松本藩を中心として』(1981・名著出版)』『信州大学教育学部歴史研究会編『信州史事典(1) 松本藩編』(1982・名著出版)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

藩名・旧国名がわかる事典 「松本藩」の解説

まつもとはん【松本藩】

江戸時代信濃(しなの)国筑摩(ちくま)郡松本(現、長野県松本市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は崇教館(すうきょうかん)。1590年(天正(てんしょう)18)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、石川数正(かずまさ)が入封(にゅうほう)、松本城は大改修され、現在国宝になっている天守閣はこのときつくられた。93年(文禄2)に長男の康長(やすなが)が8万石を継いだが、御家騒動大久保長安(ながやす)事件への関与で1613年(慶長(けいちょう)18)に改易(かいえき)され、飯田藩から小笠原秀政(ひでまさ)が8万石で入って以後は、譜代が短期間で交代した。小笠原氏2代のあと、17年(元和(げんな)3)から戸田(松平)康長(やすなが)・康直(やすなお)2代(7万石)、33年(寛永(かんえい)10)に松平(越前)直政(なおまさ)(親藩・7万石)、38年に堀田正盛(まさもり)(7万石)と続いた。42年からは水野忠清(ただきよ)以下水野氏6代が続き(7万石)、この間に藩政が整備された。1726年(享保(きょうほう)11)からは戸田(松平)光慈(みつちか)以下松平氏9代が6万石で明治維新まで続いた。1871年(明治4)の廃藩置県で松本県となり、その後筑摩県を経て76年長野県に編入された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松本藩」の意味・わかりやすい解説

松本藩
まつもとはん

江戸時代,信濃国 (長野県) 松本地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年石川数正が小笠原氏の旧領に入封したのに始る。慶長 18 (1613) 年石川氏が除封され,代って小笠原秀政が同国飯田から8万石で再封。以後元和3 (17) 年から松平 (戸田) 康長7万石,寛永 10 (33) 年から松平 (越前) 直政7万石,同 15年から堀田正盛 10万石で入封,同 19年には水野忠清が三河 (愛知県) 吉田から7万石で入封。享保 10 (1725) 年改易ののち松平 (戸田) 光慈が志摩 (三重県) 鳥羽から6万石で入封して廃藩置県にいたった。松平 (戸田) 氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「松本藩」の意味・わかりやすい解説

松本藩【まつもとはん】

信濃(しなの)国松本に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の石川氏,譜代(ふだい)の小笠原氏・松平(戸田)氏,親藩の松平(越前)氏,譜代の堀田氏・水野氏・松平(戸田)氏と変遷。領知高6万石〜10万石。
→関連項目信濃国

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル大辞泉プラス 「松本藩」の解説

松本藩

信濃国、松本(現:長野県松本市)周辺を領有した藩。天正年間に石川数正が豊臣秀吉の命により入封、現在国宝となっている松本城の天守閣はこの時代に建造されたもの。関ヶ原の戦いの後、御家騒動と大久保長安事件への関与により石川氏は改易となり、以後小笠原氏、戸田(松平)氏、水野氏などが藩主をつとめた。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の松本藩の言及

【加助騒動】より

…1686年(貞享3)10月,信濃国松本藩に起こった百姓一揆で,中心人物が多田加助(嘉助)であったことからこの名がある。貞享3年が凶作であったことから,日ごろの重税の不満を5項目にまとめて庄屋連がまず奉行所に愁訴した。…

※「松本藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android