改訂新版 世界大百科事典 「大同俱楽部」の意味・わかりやすい解説
大同俱楽部 (だいどうクラブ)
1889年および1905年に結成された政党。
(1)明治時代前期の自由党系の政社 1889年3月,大同団結運動(大同団結)の指導者後藤象二郎が突如黒田清隆内閣の逓相として入閣したため,運動方針をめぐって政社派と非政社派とに分裂した。後者が大同協和会を組織したのに対し,前者は政社として政治運動を展開することを主張し,5月東京に全国各地の代表者を集めて大同俱楽部を組織した。国権独立,責任内閣制,財政整理と民力休養,地方自治の完成,言論集会の自由などの実現を掲げ,河野広中,末広重恭,大石正巳らが中心となった。懇談会や演説会を開いて全国的な運動を展開し,とくに大隈重信外相の条約改正案に対しては非政府派の大同協和会と提携して反対運動を推進した。90年7月の第1回総選挙で60余名を当選させ,9月再興自由党(大同協和会系),愛国公党,九州同志会などと合同して立憲自由党を結成した。
(2)明治時代後半期の官僚系の政党 1905年12月,政友会,憲政本党に対抗して佐々友房らの帝国党を中心に甲辰俱楽部,自由党,無所属議員の一部が合同して結成した。行政整理,陸海軍の充実,満韓経営の推進,農商工業の拡張などを掲げ,佐々友房を中心に臼井哲夫,安達謙蔵らが幹部となった。所属議員は76名。第22議会では西園寺公望内閣を支持したが,第23議会に郡制廃止案が上程されると,官僚派の利害を代表するためこれに反対し,野党的立場を明らかにした。第24議会ではさらに野党色を強めたが,08年の第10回総選挙で所属議員を29名に激減させた。同年成立した第2次桂太郎内閣にはその与党となり,農商務相大浦兼武の裏面からの操縦をうけて非政友合同を画策したが,工作の中心人物臼井らが09年に発覚した糖業保護をめぐる汚職事件(日糖疑獄)に連座し有罪となったため,運動は停滞した。第26議会では桂内閣が多数党の政友会と〈情意投合〉の提携関係を結んで議会のりきりをはかったため,危機感を抱いた小党間で合同の機運が再燃し,議会末期の10年3月1日に戊申俱楽部,無所属議員の一部と合同して中央俱楽部を結成した。その後,桂内閣の韓国併合政策を積極的に支持した。第1次護憲運動に際し,桂が立憲同志会を結成すると,中央俱楽部は解散して全員これに参加した。
執筆者:宇野 俊一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報