日本大百科全書(ニッポニカ) 「西園寺公望内閣」の意味・わかりやすい解説
西園寺公望内閣
さいおんじきんもちないかく
明治末・大正初期、西園寺公望を首班として組織された第一次、二次にわたる内閣。
[山本四郎]
第一次
(1906.1.7~1908.7.14 明治39~41)
第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の後を受け成立。日露戦争末期、政友会の原敬(はらたかし)が桂首相と政権の授受工作(戦争終結策で政府を援助し、辞職後は西園寺に譲る)をした結果による。この内閣は閣僚の選考よりみて藩閥、貴族院、政党のバランスのうえになり、前内閣の計画を継承して戦後経営に積極策をとり、鉄道国有、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)の経営、産業振興策、2個師団増設を実行した。1906年1月日本社会党の結社を認め(翌年2月禁止)、外交では1907年日仏協約、第一次日露協約を締結し、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得した。この間内相原敬による内務省改革、再度にわたる郡制廃止法案の議会提出は、山県有朋(やまがたありとも)系藩閥官僚の地盤を崩し、政党勢力を伸長するものとして官僚派に脅威を与えた。また初期の満州派遣軍の満州開放遷延策(日本は戦争終結後は軍政を速やかに撤廃し、満州を開放することを諸外国に声明していた)は外国の批判を受け、国内では伊藤博文(いとうひろぶみ)らが軍に早期開放を求めて抗争を起こした。この問題と鉄道国有問題に絡んで加藤高明(かとうたかあき)外相が辞職、1908年1月には予算編成をめぐって阪谷芳郎(さかたによしお)蔵相と山県伊三郎逓相(ていしょう)が対立、辞任するなど、不安定要素も多く、貴族院から後任を簡抜して貴族院を警戒させた。また1907年文部省展覧会(文展)を設けて美術の統制と振興を策し、文士とも歓談した(雨声会)。一方、交通機関の整備、産業の発展策などにより輸出を伸ばそうとする積極政策は、1907年秋よりの恐慌で失敗し、1908年3月の総選挙で政友会は187議席を獲得したが、政党勢力の伸長を恐れる桂太郎の策謀の結果、元老から財政策につき非難を受け、西園寺首相は閣僚にも党幹部にも謀らず元老に辞職を約し、7月総辞職した。
[山本四郎]
第二次
(1911.8.30~1912.12.21 明治44~大正1)
第二次桂内閣の後を受け成立。前内閣末期の「情意投合」の結果によるが、組閣時から官僚派と対立の姿勢をとった(原敬内相主導)。閣僚は政友会3、他も西園寺系が多い。最大政策は行財政整理であったが、これは帝国主義政策の修正を意味し、世論の支持を受けた。1911年10月の辛亥革命(しんがいかくめい)には表面上不干渉政策をとり、翌年5月の総選挙では政友会は議席を211に伸ばした。行財政整理計画は進捗(しんちょく)したが、その途中で明治天皇が没し、天皇を支柱とした官僚派は整理進捗による政友会の人気を喜ばず、危機感を深め、政府の海軍充実策に対し陸軍は2個師団増設案を強硬に主張、内閣が拒否すると上原勇作(うえはらゆうさく)陸相は12年12月2日辞職し、陸軍はその後任を出さず、5日に内閣は総辞職した。この結果第一次憲政擁護運動が起こる。
[山本四郎]
『信夫清三郎著『大正デモクラシー史 第1巻』(1954・日本評論新社)』▽『原奎一郎編『原敬日記 第2・3巻』(1965・福村出版)』▽『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『中川小十郎著、後藤靖・鈴木良校訂『近代日本の政局と西園寺公望』(1987・吉川弘文館)』