同志会(読み)どうしかい

改訂新版 世界大百科事典 「同志会」の意味・わかりやすい解説

同志会 (どうしかい)

大正初年の政党立憲同志会の通称。日露戦争後政友会と妥協し,西園寺公望と交代で内閣組織してきた桂太郎は,その第2次内閣(1908-11)のときから,自分の意のままに動かせる政党をつくることを意図してきた。第3次内閣が護憲運動に脅かされた桂は,新党結成に踏み切り,13年2月7日,みずから立憲同志会創立委員長となって宣言綱領を発表した。大浦兼武の率いる官僚派中央俱楽部の全員33人に大石正巳,河野広中ら国民党過半数をあわせ93人の代議士と,後藤新平,若槻礼次郎ら桂系官僚が加わったが,政友会の切崩しに失敗し,桂は議会を解散することなく2月11日総辞職した。同年10月の桂の病死後,政党内閣主義を否定する後藤新平ら一部官僚政治家が脱党,12月23日の結党大会で,総理に加藤高明,総務に大浦・大石・河野が就任した。シーメンス事件で第1次山本権兵衛内閣の倒閣に成功し,1914年4月成立の第2次大隈重信内閣の最大与党となり,9閣僚中,加藤・若槻・大浦・河野・武富時敏の5閣僚と江木翼内閣書記官長を送り込んだ。15年3月の第12回総選挙で,政友会の絶対多数を打破して153議席を獲得,第一党となった。内閣は護憲運動の原因となった2個師団の増設を実現し,二十一ヵ条要求に示される露骨な中国侵出政策をとったが,大浦の議員買収問題が政友会員の告発により表面化し,同年8月内閣は全閣僚の辞表を提出した。結局内閣改造におわり,同志会は大浦・加藤・若槻に代えて箕浦勝人と準党員高田早苗を送り,与党関係を維持した。翌年大隈が辞意を示し加藤を後継首相に想定するとともに,8月より高田を提唱者として,同じ与党たる中正会,公友俱楽部,同志会3派の合同運動が起こり,次期寺内正毅内閣成立の翌日たる10月10日,憲政会の結成をみた。

 なお,1897年進歩党を退いた田口卯吉ら8人の代議士により,ついで1912年旧又新(ゆうしん)会員11人により〈同志会〉の名称の結社がつくられたことがあるが,いずれもその翌年消滅した。
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百科事典マイペディア 「同志会」の意味・わかりやすい解説

同志会【どうしかい】

大正時代の政党。正式には立憲同志会。憲政擁護運動への対抗策として,桂太郎国民党・中央倶楽部を中心に1913年2月に立憲同志会の創立を宣言。同年10月桂が病死し,一部は党を離れたが,加藤高明を総裁として12月に結党式をあげた。1914年第2次大隈内閣の最大与党となり,1915年の選挙では第1党となった。1916年10月大隈内閣の総辞職に併って憲政会を組織。
→関連項目浜口雄幸

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