大向村(読み)おおむかいむら

日本歴史地名大系 「大向村」の解説

大向村
おおむかいむら

[現在地名]南部町大向

三戸村(現三戸町)の北東、馬淵まべち川右岸の沖積地に位置する。西から北へ馬淵川が蛇行して流れ、東南には名久井なくい(六一五・四メートル)がそびえる。東は八戸藩領法光寺ほうこうじ(現名川町)、西南は馬淵川を隔てて川守田かわもりた(現三戸町)、南は泉山いずみやま(現三戸町)、北は沖田面おきたおもて村・小向こむかい村に接する。元弘四年(一三三四)と推定される南部師行書状(遠野南部文書)

<資料は省略されています>

とあり、この頃南部師行の所領があったものとみられる。戦国時代には三戸南部氏の配下に入り、大向館は同氏の居館の一とされる。


大向村
おおむかいむら

[現在地名]徳山市大字大向

金峰みたけ山の西南麓、主としてにしき川沿いに集落が点在し、北は鹿野下かのしも(現都濃郡鹿野町)、西は大道理おおどうり、南は長穂ながほの各村に接する。徳山藩領。

慶長五年(一六〇〇)検地帳では総石高三九四石七斗を記すが、同一五年の検地帳による石高は六五七石余、うち田方は四五町余で五七四石余、畠方が一七町余で四五石余、百姓屋敷七一とある。

毛利輝元は次男就隆に元和七年(一六二一)それ以前に分知した地の一部替地として大向六五七石の地を約束し、翌年大向村六五七石二升二合を打ち渡した(毛利家文書)。寛永三年(一六二六)の熊野帳は毛利就隆給領として高八四二石六升九合を記す。


大向村
おおむかいむら

[現在地名]久美浜町字大向

西天橋さいてんきよう砂嘴の最先端の湊宮みなとみや村と神戸ししどを挟んで向い合う。裏山と神戸の間の狭い部分に集落をつくる。昭和三〇年(一九五五)に湊大橋ができるまでは、湊宮村とは渡舟で通っていた。

中世末の丹後国御檀家帳に「くみの大むかい 家百五十軒斗」とみえ、井の上太郎左衛門ほか六名の名が記される。慶長検地郷村帳には湊村の内として「大向村」と記され、延宝三年郷村帳には湊宮村に続けて「同大向村」高一〇一・七七石と個別に高付されている。延宝九年(一六八一)の延高で一六四石余となった(天和元年宮津領村高帳)

大向には松倉周防守の日村岳ひまおか砦があったといわれ、「一色軍記」に「日村岳砦、松倉周防守、久美庄湊大向の地なり」とあり、永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図(「田辺旧記」所引)にも、大向の地に「日間丘 松倉周防守」と記される。


大向村
おおむかいむら

[現在地名]窪川町大向

若井わかい村から四万十しまんと川を隔てた西にある。西南流する四万十川が大きく北に向きを変えて村の東・南・西を囲み、北には柳峠やなぎとう(四三八メートル)から藪尾しようび(六九〇メートル)に連なる山がある。江戸時代の新田村であるが、天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳の若井村の項に小村として大向村がみえ、地積二町余、ヤシキ四筆でほとんどが窪川分であった。この地積に相当する地高は江戸時代になって若井村分に含まれたとも考えられる。


大向村
おおむかいむら

[現在地名]掛川市大野おおの

奥野おくの(逆川)沿いの谷間に開かれた村で、山の上まで棚田がある。東は日坂につさか宿。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高七一石余。正保郷帳では田方四三石余・畑方一八石余、幕府領元禄郷帳では高八九石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、八幡領。


大向村
おむかいむら

[現在地名]奈良市大和田おおわだ

小和田こわだ村の南方にある。小和田村のうちであったが分村し、元禄郷帳に村高三五五・三四五石で郡山藩領、「小和田之枝郷」と注記する。集落はもと鳥貝とりかい川筋にあったが、延宝三年(一六七五)洪水の危険を避けて現地に移ったという(富雄町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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