大嶺村(読み)おおみねむら

日本歴史地名大系 「大嶺村」の解説

大嶺村
おおみねむら

[現在地名]美祢市大嶺町東分おおみねちようひがしぶん大嶺町西分おおみねちようにしぶん・大嶺町北分きたぶん・大嶺町奥分おくぶん

現美祢市の中央に位置する。東の秋吉あきよし台をはじめ、四方を山に囲まれた山間の大村で、集落は南流する厚狭あさ川とその支流、およびこの流域に開けた大嶺盆地に点在する。村内を北東から南西に赤間関あかまがせき街道(中道筋)が、南北に肥中ひじゆう街道が通る。東は河原かわら村、西は豊浦郡麻生上あそうかみ村と麻生下村

山陽道と山陰道を結ぶ古代の陰陽連絡路が通り、沿道に鹿野かの駅が置かれていた。また「文徳実録」仁寿元年(八五一)一〇月八日条に従五位下を授与されたことがみえる長門国の四神のうち「鹿」は鹿野で、当地にあったとされる。これらから、鹿野は古代の郷名かとも思われるが、「和名抄」にはみえない。平安時代末期には、石清水いわしみず八幡宮領の大峯おおみね庄の地であった。「正慶乱離志」によれば、正慶二年(一三三三)三月、当地を中心に南北両朝軍の戦闘(大嶺の戦)が行われた。周慶寺文書(「寺社証文」所収)の天文二二年(一五五三)二月六日付西方寺然誉上人宛の文書によれば、下野守興盛なる者が、後世の菩提のため不断念仏料として大峯庄のうち二〇石を西方寺に寄進したとある。


大嶺村
おおみねむら

[現在地名]龍山村大嶺

現龍山村南部、天竜川右岸にある。北西の白倉しらくら山の山腹に発する西遊里さゆり(白倉川)は南東へと流れ、小芋こいも(夏秋川)を合せて西さい川となり、天竜川に合流する。同川対岸は戸倉とくら村、南は西雲名にしうんな(現天竜市)、西はくま(現同上)。「遠江国風土記伝」には里として大峰おおみね白鞍しらくら夏秋なつあき雁名がんめい西川さいがわ鮎釣あゆづりを記す。

「和名抄」記載の山香やまか大峯おおみね郷の遺称地とされる。至徳三年(一三八六)六月二七日の管領斯波義将奉書(富田仙助氏所蔵文書)に「大峰・平山・犬居村地頭職事」とみえる。大峰など三ヵ村については、正平六年(一三五一)横地よこじ(現菊川町)を本領とする奉公衆横地長連がその父為時が宛行われたと主張したが、観応三年(一三五二)八月一三日天野氏に安堵された。その後長連は三ヵ村を御料所とし、永徳二年(一三八二)八月二五日の御料所停止後も執拗に引渡しを要請したが、至徳三年、これらの地頭職は天野景隆に安堵された。


大嶺村
うふんみむら

[現在地名]那覇市大嶺おおみね

当間とーま村の西、小禄うるく間切西端の慶良間けらま諸島を望む海辺低地に位置する。嘉靖三九年(一五六〇)八月八日の辞令書(田名家文書)によると、「とよミくすくまきりの大ミねのさとぬし」が「にしのこおりの一人せそこの大やくもい」に安堵されている。麻姓田名家家譜によれば、このとき豊見城とうみぐすく間切大嶺村の地頭職に転任したのは五世真命儀間親雲上。「おもろさうし」巻二〇の三九に「一 にしのよのぬし(西〔北〕の世の主が)/大みねのつかい(大嶺にご招待)/あまゑて かかちよわれ(喜んで輝いてましませ)/又 けおのよかるひに(今日の良き日に)/又 けおのきやきやろひに(今日の輝く日に)」とみえる。小禄間切新設以前は豊見城間切に属し、絵図郷村帳・琉球国高究帳ともに同間切に村名がみえる。


大嶺村
おおみねむら

[現在地名]田尻町大嶺

八幡やわた村東方の丘陵上と南側低地に位置。東は沼辺ぬまべ村。田尻宿、栗原郡高清水たかしみず(現高清水町)、同郡佐沼さぬま(現登米郡迫町)に至る道が通る。当地南の大嶺山は「観蹟聞老志」に秀翠峯と記される。村名は藤原秀衡が大和国の大峰山に対して同山に奥羽の修験霊場を開いたことによるという(安永風土記)正保郷帳に村名がみえ、田六六貫八一九文・畑八貫九九三文、ほかに新田二貫一〇〇文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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