西方寺(読み)さいほうじ

日本歴史地名大系 「西方寺」の解説

西方寺
さいほうじ

[現在地名]幸田町久保田 開章

久保田くぼた村内の中央部にある。紫雲山と号し、浄土宗西山派。本尊は阿弥陀如来。寺伝では宝徳元年(一四四九)岩津いわづ(現岡崎市)城主松平信光の従弟教然良頓の開基と伝える。永正一五年(一五一八)松平信忠の寺領寄進状(諸州古文書)には、

<資料は省略されています>

寺地の字開章かいしようは中世には坂崎さかざき郷に含まれ、その後周辺は久保田村として独立するが、寺領のみは開章村として独立したことが慶長八年(一六〇三)の家康朱印写(徳川家康文書の研究)で判明する。

<資料は省略されています>

徳川氏領では貫高制の一貫文は石高制の一石に切替えられており、寄進地二六貫文は朱印地高二六石となった。寺内墓地の最も古い年号記入の墓石は寛正五年(一四六四)のもので、開基教然良頓の墓と考えられる。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]富士吉田市小明見

小明見こあすみの西方、新田しんでん地区にある。山号は引接山。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開山は耀月祖底で、創建の頃は長老尾ちようろうお(小明見東端)にあり、臨済宗京都妙心寺の末寺であったという。永禄年間(一五五八―七〇)に重屋珍書貴室により山之寺やまのてらという地に移された。その後武藤一族が廃絶していたこの寺を興し、山岸やまぎしの地に諸堂を再建、武州大善だいぜん(現東京都八王子市)に勤学していた武藤某(性蓮社心誉大善)を住職に招き中興開山とした。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]河内町上田原

山田やまだ川右岸にある。黒石山伝行院西方寺と称し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。永享一〇年(一四三八)山城国醍醐寺無量寿むりようじゆ院の秀誉が田原たわら郷富士山に草堂を結び、阿弥陀如来坐像を安置したのが草創と伝える。秀誉は宇都宮金剛定こんごうじよう寺の祐請より四代目で、秀栄―秀光―秀弘と法流を伝え、五代秀継は天文三年(一五三四)同寺の亮海より法流を継承して西方寺に入った(菩提心論灌頂)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]佐世保市八幡町

東陽山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。建長年間(一二四九ー五六)香林永により赤崎あかさき岳北麓に開創された臨済宗の皈一きいち庵と、長禄年間(一四五七―六〇)相浦洪徳あいのうらこうとく寺の三世鳳清大林により創建された西方寺が合併して成立したと伝える。戦国末期、佐世保城主として赤崎から移住した赤崎伊予守を開基とする。香林を開創、鳳清を開山(中興)とし、元亀年間(一五七〇ー七三)頃の赤崎伊予守を開基とする所伝もある(大日本長崎県寺院図録・寺院明細帳)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]今治市東村

じようだいにある。不遠山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。

寺伝によると、朝倉あさくら(現越智郡)笠松かさまつ城主岡武蔵守光信が六男松若丸を本導寺の宥学に入門させ、浄蓮律師(建治二年没)として朝倉村野々瀬ののせに一宇を建立したのが初めで、当初は普拝山西福寺と号し、律宗であった。後を継いだ浄蓮の弟子円祐は、朝倉村白地しらじ南越山城主日浅阿波守の次男で、二〇年間在住し、その間大いに寺勢振るい、院号を西方院、坊号を東光坊と定め、本尊に阿弥陀如来を安置した。笠松城に近いため日夜時の鐘をつき、河野氏より永代寺領一〇〇石、毎月の灯明銭三貫文を賜ったという。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]若桜町若桜

通称東裏ひがしうら町にある。不遠山と号し浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来(伝春日作)。寺伝によると当寺はもと無宗派で、釈迦・阿弥陀の二尊を祀って二尊にそん院と称していたが、天文年間(一五三二―五五)西山派の僧俊空幸善が来住して西山派に属し、おにヶ城主矢部氏の祈願所となったという。俊空のあと住持となったのは朝鮮の空伯李珍で、李珍は播州網干あぼし(現兵庫県姫路市)の西方寺住持であったが、矢部氏のあと鬼ヶ城主となった木下平太夫(備中守)により二尊院に招聘され、寺領の寄進を受けて西方寺と改称したという(寺蔵文書・因幡民談記)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]柳川市恵美須町

恵美須えびす町の東部、江戸時代の切革屋きりかわや町通北側にある。法雲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。天正一五年(一五八七)、立花宗茂が戸次一族の故地豊後藤北ふじきた(現大分県大野町)から善法寺慶信を呼寄せ正行まさゆき(現三橋町)に禅宗の法雲ほううん寺を建てさせた。翌年同寺を訪れた宗茂は浄土真宗西派に改宗させて寺地を当地で与え、寺号を西方寺と改めたと伝える。塔頭として専念せんねん寺と善定ぜんじよう(ともに現浄土真宗本願寺派)をもつ。浄土真宗西派の触頭。移された際の寺地は広大であったが、田中吉政死後に大部分が引揚げられ、その跡に町立てがなされたという(慶応三年「西方寺寺記略」西方寺文書)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]宮城町大倉 定義

大倉おおくら川大倉ダム上流の山深い地にある。浄土宗、山号極楽山。本尊は蓮糸曼荼羅一軸の阿弥陀如来(画像身丈二尺八分、立像)で、俗に「定義じようげさん」「定義如来」とよばれる。一生に一度の大願は必ず叶うといわれ、古来縁結び、安産の守護神として、遠近のあつい信仰を集める。また西方寺は浄土宗でありながら祈祷を行う特異な寺としても知られる。定義如来の由来について「観蹟聞老志」に「相伝平重盛家臣筑後守貞吉所持之像也」とあり、「封内風土記」にも「阿弥陀堂 伝云小松内府重盛卿家臣筑後守貞吉之護持仏也」とある。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]北区西賀茂鎮守庵町

ふな山の南麓にある。浄土宗、来迎山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、承和一四年(八四七)円仁が天台宗の寺として開創し、その後正和年中(一三一二―一七)に道空が中興、浄土宗に改めたという。道空が干菜ほしな(現京都市左京区)の中興開山とされるところから、当寺は干菜寺の末寺となり、以後六斎念仏弘通の寺として栄えた。宝暦五年(一七五五)の六斎支配村方控牒(干菜寺文書)には「西加茂西方寺講中」とみえ、いまも毎年八月一六日の五山送り火の夜、船形万灯籠を点火したあと境内で行われる六斎念仏は、鉦や太鼓による囃子と唱名念仏に和し、豆太鼓を打ちながら踊るもので、空也くうや堂系の六斎念仏に比して古態を伝えるといわれる。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]碧南市浜寺町

大浜おおはま村の西に位置し、大浜街道に沿う。法応山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。勝鬘しようまん(岡崎市)のもと末寺。もと棚尾たなお八王子はちおうじ宮境内にあり、天台宗興聖こうしよう寺と称したが、明徳年間(一三九〇―九四)住持念雅のとき蓮如に帰依して西方寺と改称したという。延徳三年(一四九一)大浜村へ移転。「蔭涼軒日録」長享元年(一四八七)の項に次のようにみえる。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]桐生市梅田町一丁目

じよう(檜杓山)の南麓にある。梅田山と号し臨済宗建長寺派。本尊阿弥陀如来。本尊胎内には桐生助綱による永正一八年(一五二一)の修理墨書銘がある。県指定重要文化財。「関東庭軍記」(桐生代々之事)によれば、桐生国綱が桐生家の菩提寺として桐生城築城と同時に創建したと伝える。もと浄土宗であったが応永元年(一三九四)豊綱が臨済宗に改宗したという(「国志」など)。開山禅師は当時甲州・武州地方で名僧といわれた峻翁令山である。最も栄えたのは助綱が大檀那の頃で、住職は禅興ぜんこう(現神奈川県鎌倉市)の天叟中樹であったという。その頃檜杓ひしやく山への登り口に末寺栖松せいしよう寺を建立したが、現在は廃寺となっている。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]日南町多里

多里たり宿筋の北端、日野川に合流する萩山はぎやま川右岸に位置する。龍雲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。文明年中(一四六九―八七)善徳の開創(日野郡史)。善徳はかつて出雲三沢みざわ(現島根県仁多町)城主三沢遠江守為忠と称したが、同年中に蓮如の弟子となり改名、当寺を建立したという。寺伝によれば、天正年間(一五七三―九二)善瑞の開創ともいわれ、過去帳では善瑞は出雲善徳ぜんとく(現同県横田町)開祖善徳の実弟で、寛永三年(一六二六)の死去とある(鳥取県史)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]羽島市足近町直道

阿遅加あぢか神社の東方、さかい川南岸にある。寺田山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。開創年代は明らかではないが、推古天皇一〇年本田善光が信濃へ向かう途中、当地で休憩、同二〇年聖徳太子が七堂伽藍を建立、太子寺と名付けて自刻の阿弥陀如来を安置した。皇極天皇は当寺が善光寺如来休息の霊場であることから、善光に命じて善光寺如来の模造を作らせて奉納した。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]田辺町飯岡

袋中山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来・観音・勢至菩薩。浄土宗の碩学袋中を開山とする。袋中は天文二一年(一五五二)奥州磐城いわき郡に生れ、慶長八年(一六〇三)入明を志して果さず、琉球で布教に努め、「琉球神道記」などを著した。のち南山城に住んで教化を及ぼし、寛永一四年(一六三七)相楽そうらく瓶原みかのはら(現京都府加茂町)を去って木津きづ川を下る途中、飯岡いのおかで下船、当地の豪農奥林三良兵衛の援助を得て西方寺を開創した。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]津島市天王通り

奴野ぬのや城跡と伝える地にある。延享四年(一七四七)一二月まで天王てんのう橋東詰の橋詰はしづめ町にあったが、火難を避けて布屋ぬのやの地に移転した(徇行記)。岳翁山往生院と号し、昭和二九年(一九五四)までは浄土宗鎮西派、現在は単立寺院である。本尊は阿弥陀如来坐像。

開祖は天文三年(一五三四)一二月寂の大済長源(雑志)。松平下野守忠吉の菩提所である名古屋性高しようこう院末寺という関係で、毎年、天王祭礼(→津島神社の尾張藩主代参使の宿坊となった(「市江御車古記録」服部尚彦氏蔵)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]小浜市和久里

和久里わくり集落の西側にある。霊石山と号し、臨済宗妙心寺派(もと時宗)。本尊阿弥陀如来。延元二年(一三三七)に南朝方代官の長井雅楽介(号朝阿弥)が建立したと伝える。境内のいちとうとよばれる宝篋印塔は江戸時代には八幡はちまん小路(現男山)永三えいさん小路(現住吉)辺りに置かれていたが、明治六年(一八七三)現在地へ移された。総高三・四六メートルの花崗岩製で若狭地方最大の石造品。基礎銘文に「大願主沙弥朝阿」「延文三年戊戌七月廿二日」と記され、長井氏が北朝の進攻で没落後、遁世して西方寺を創建、塔も造立したという。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]久留米市寺町

寺町てらまち通の東側中央にある。光雲山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。文禄三年(一五九四)毛利秀包の代、久留米城下うち町に念誉が開いたという。鎮西派善導ぜんどう寺末。元和七年(一六二一)四世慶誉のとき寺町に寺地を拝領(久留米市誌)。五世信誉の代、正保四年(一六四七)の再興ともいう(寛文十年寺社開基)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]伏見区風呂屋町

真宗大谷派、光明山と号し、本尊は阿弥陀如来。「拾遺都名所図会」には「風呂屋町にあり。東本願寺に属す。古は金札宮の旧地にありて久米神宮寺と号す。親鸞聖人の弘法に浴し、西方寺と改む。金松氏の末葉にして、今二十四輩の列となる」とある。「京都府地誌」によると、元亨二年(一三二二)存覚の開基。天台宗で久米くめ寺と号し、久米村(現伏見区)金札きんさつ宮の境内にあった。文和四年(一三五五)後光厳天皇から現寺号を賜り、後柏原天皇の勅願所となった。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]新潟市鳥屋野

鳥屋野とやの集落の西方にある。真宗大谷派で北園山鳥屋野院と号し、本尊阿弥陀如来。開基は弘安五年(一二八二)本山二世の直弟明珍と伝え、能登国羽咋はくい(現石川県羽咋郡)に創建、天正一九年(一五九一)新潟町に移転し、元和五年(一六一九)親鸞の旧跡を守護するために当村に移った。伝えによると越後に遠流の身であった親鸞は、承元三年(一二〇九)当村に草庵を結び布教につとめたが、帰依する者のないのを嘆き、携えた竹杖を地に挿し、その説くところが仏意にかなうものなら必ず根芽を生ずると予言した。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]竹原市竹原町

竹原の旧市街地の東、ひがし山にあり、引接山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。古く南の田浦たのうらにあり、中世には禅宗で小早川氏の崇敬により三〇〇石を得ていたが、慶長一五年(一六一〇)下市しもいちを中心とした大火で焼失、現在地に移った。

境内南側の一段高い所に舞台造の普明ふめい閣がある。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]山添村大字広瀬小字上出

広瀬ひろせ集落内にある。もと小字今中いまなか(現広瀬小学校敷地)にあったが、明治四二年(一九〇九)現在地に移された。真盛山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。古く浄土宗で極楽院と称したが、のち天台宗に改宗、三重県上野市九品くほん寺の末寺に属した。明治まで尼寺であったが、現在は無住。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]田辺市元町

会津あいづ川河口右岸、もと町の南隅に位置する。専念山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。田辺藩古記録(宇井文書)所収の寛文六年(一六六六)田辺領寺院書上、元禄三年(一六九〇)の田辺領寺社改帳(田所文書)は、慶長(一五九六―一六一五)以前は西にしたに御所谷ごしよだに(現田辺市)にあったが、慶長一二年中興開山堅誉が当地に移転させたといい、堅誉以前は何宗の僧が住持であったか不明と記す。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]大和郡山市車町

従是山と号し、浄土宗。永正年間(一五〇四―二一)西念が尼辻あまがつじ(現奈良市)付近に創建、文禄(一五九二―九六)頃、中興開山念誉によって現在地に移されたという。本尊は阿弥陀三尊像。中尊は平安末期の様式で、嘉応二、三年(一一七〇、七一)頃の造立と伝える。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]水俣市葛渡

南嶺山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。もと大藪おおやぶ村にあり、水俣地方東部の唯一の寺院で、江戸時代には真宗禁制の薩摩大口おおくち(現鹿児島県大口市)からの参詣者も多かったという。「国誌」に「府ノ順正寺末寺、万治元年開基之年貢地也」とある。昭和一二年(一九三七)葛渡くずわたりに移った。明治初期の寺院台帳(水俣市史)に「当寺は生国石見国僧性禅と申す者、天正年中薩摩征伐の砌り京都本願寺教如上人陪従、当地下向島津義久降伏平治の後、教如上人帰京の砌当地宝川内村に留まり一室を結ひ住す。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]西枇杷島町小田井三丁目

渡河山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。創建年代不詳。もとは今の小田井おたい城跡にあり、天台宗であったという。貞永元年(一二三二)(「徇行記」は嘉禎元年とする)親鸞が帰京の途中、当寺に逗留した時、住僧玄理は親鸞に帰依してその弟子となり、名を覚証(「雑志」には各正坊とある)と改め、寺を真宗に改宗して中興開基となったという。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]上関町大字室津

室津むろつ浦にある浄土宗寺院。竜池山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、創建はつまびらかでないが寿永四年(一一八五)平家の公卿某が竜池りゆうち庵で落飾して専修念仏修行をし、竜池庵紫雲院と号したという。慶長年中(一五九六―一六一五)に長誉貞竜が中興、西方寺と改めて知恩院末になった(注進案)


西方寺
さいほうじ

[現在地名]奈良市油阪町

草鞋山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。開基は祐乗と伝える。もと東大寺の別院で佐保さほ山麓にあったが、永禄年間(一五五八―七〇)松永久秀多聞たもん(現奈良市)を築く際に移して西方寺としたという。本尊阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財、鎌倉時代)は、眉間みけん(現奈良市)の旧仏といわれる。


西方寺
せいほうじ

[現在地名]熊本市京町一丁目

岩立いわだて口の円光えんこう寺跡の東隣にあり、浄土院九品山と号し、浄土宗。「国誌」によれば、天正五年(一五七七)絶公紅誉の開基。加藤清正は紅誉に対し合志こうし郡内に寺産を与えたという。初め誓願寺と号したが、後に西方寺と改めた。薬師堂の薬師如来は昔の本尊で、行基の持仏と伝え、同じ堂内には観世音が安置され、熊本三十三所札所の一つであったと伝える。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]西尾市小島町 二ヶ崎

小島おじま城のあったしろ山の東麓に位置する。小島山浄土じようど院といい、浄土宗鎮西派。大樹だいじゆ(現岡崎市)のもと末寺、本尊阿弥陀如来。寛文年間(一六六一―七三)の創建で、小島城主であった山田七蔵重宗・同八蔵重広・伊奈備前守忠次の位牌を祀り、忠次との関係の深さを示す。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]榛原町大字山辺三

伊勢北いせきた街道北方に所在。西法寺とも書く。遍立山と号し、融通念仏宗。本尊薬師如来。天正九年(一五八一)宗祐そうゆう(現榛原町)開基宗祐の弟子宗仙によって創建されたという。客仏に鎌倉時代薬師如来立像(県指定文化財)があり、胎内に弘安元年(一二七八)の結縁交名が存する。


西方寺
さいほうじ

[現在地名]安来市安来町

江戸時代の安来町の南東端近くにある。青陽山と号し、本尊は安阿弥作と伝える阿弥陀如来。浄土宗。寺伝では永禄年間(一五五八―七〇)縁蓮社近誉の開創というが、「蓮門精舎旧詞」には「開山縁蓮社近誉上人、寺起立慶長元丙申年、慶長十五庚戌年三月十五日遷化」とある。「雲陽誌」は「境内に山あり、古城といふ、由緒しれす、薬師堂一宇、古は十神山南の谷にあり、五十年前零落故に如来を此寺に安置す」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「西方寺」の解説

西方寺(定義如来)

(宮城県仙台市青葉区)
ふるさとみやぎ文化百選 建造物とまちなみ編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西方寺の言及

【定義[温泉]】より

…仙台駅からバスの便があり,終点からさらに山道を約3km,徒歩1時間で湯川渓谷の一軒宿に至る。温泉に近い西方寺には縁結び,子授けに霊験あらたかといわれる定義如来があり,農閑期には参詣を兼ねた湯治客が多かった。単純泉で,泉温は36~38℃。…

※「西方寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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