日本歴史地名大系 「西方寺」の解説
西方寺
さいほうじ
寺地の字
徳川氏領では貫高制の一貫文は石高制の一石に切替えられており、寄進地二六貫文は朱印地高二六石となった。寺内墓地の最も古い年号記入の墓石は寛正五年(一四六四)のもので、開基教然良頓の墓と考えられる。
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
真宗大谷派、光明山と号し、本尊は阿弥陀如来。「拾遺都名所図会」には「風呂屋町にあり。東本願寺に属す。古は金札宮の旧地にありて久米神宮寺と号す。親鸞聖人の弘法に浴し、西方寺と改む。金松氏の末葉にして、今二十四輩の列となる」とある。「京都府地誌」によると、元亨二年(一三二二)存覚の開基。天台宗で
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
せいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
西方寺
さいほうじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報