大川原村(読み)おおかわばるむら

日本歴史地名大系 「大川原村」の解説

大川原村
おおかわばるむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう大川原

井手野いでの盆地の中央を北流する徳須恵とくすえ川の東側半分が大川原である。天保郷帳には「大川野原村」とあるが、元和二年(一六一六)の肥前国上松浦郡之内大川原村検地帳のように大川原村とするのが正しい。正保絵図にも大川原村とある。

小字名はいまも元和検地帳に出てくる地名が大部分であまり変化はなく、七郎淵しちろうぶち山の口やまのくち橋住はしずみ(元和検地帳には「橋つめ」)大川谷おおこんたになどがある。

字樅モミノ木谷きだにに古窯跡がある。中里家の記録によれば、文禄(一五九二―九六)から慶長の初期頃、福本弥作・大島彦右衛門・中里又七の三名が現伊万里市大川おおかわ東田代ひがしたしろ字かめ屋に窯を開き、その後、慶長一〇年(一六〇五)頃樅ノ木谷に移り、最初の大川原窯を開き、一〇余年間窯を焼いて元和元年頃に現南波多町府招椎峰ふまねきしいのみねへ移転したという。


大川原村
おおかわらむら

[現在地名]黒石市大川原

中野なかの川上流の山間にあり、黒森くろもり山の東にあたる。

元禄四年(一六九一)の黒石御絵図(市立弘前図書館蔵)に「大川平」とある。同七年の黒石平内戌年郷帳(同館蔵)では大川原村になり、享保一〇年(一七二五)の黒石領郷村帳(同館蔵)には「黒石分新村」として大川原村が記される。村人は南朝の落人の子孫と称し、公卿村ともよばれた(烏城志)。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「土地痩田畑少し、常産は薪炭なり」とあるように、江戸時代には木樵・炭焼などの山仕事を主業とし、農業やマタギ(狩猟)を副業としていたようである。大川原のマタギは黒石陣屋に熊の皮と胆を納めていた(浅瀬石川郷土誌)


大川原村
おおがわらむら

[現在地名]大熊町大川原

くま川上流右岸にあり、その支流の大川原川が流れる。東は熊村、南は楢葉ならは上手岡かみておか(現富岡町)、北は野上のがみ村・下野上村。明暦二年(一六五六)野上村を分村し、同年の検地による高二一石余とあるが(相馬藩政史)正保郷帳に当村名がなく、野上村の名があるので野上村からの分村と思われる。元禄郷帳では高二一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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