大手村(読み)おおてむら

日本歴史地名大系 「大手村」の解説

大手村
おおてむら

[現在地名]須磨区大手町一―九丁目・権現町ごんげんちよう一―三丁目・戎町えびすちよう五―六丁目・大黒町だいこくちよう五丁目・大田町おおたちよう五―八丁目・大池町おおいけちよう五丁目・大手

東須磨村の東に位置し、六甲ろつこう山地西端部の南山麓から沖積地にかけて立地する。村南部を山陽道が通る。文禄三年(一五九四)の大手村検地帳写(兼吉家文書)には高三〇二石余とあり、屋敷は三九筆で、こまばやし野田のだ(現長田区)板宿いたやど・須磨など隣村からの出作もあった。


大手村
おおてむら

[現在地名]近江八幡市金剛寺町こんごうじちよう

西にししよう村の南にある。朝鮮人街道から分岐、琵琶湖湖岸に向かう道(浜街道とも)沿いに集落を形成する。古代条里の遺称とされる小字名が多く残る。守護六角氏の別館があったと伝え、六角氏頼が亡父時信の菩提のために建立したという金剛寺や同氏の支城金剛寺城があった。地名は同城の大手(追手)に由来すると思われる。江戸時代には金剛寺村ともよばれている(輿地志略)。元和四年(一六一八)には二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院(徳子)の化粧料地となっていた(中島文書)。寛永三年(一六二六)崇源院没後、同一一年に化粧料地のほとんどは陸奥仙台藩領となったが、当村の支配は不明。


大手村
おおでむら

[現在地名]春日井市大手町

田楽たらが村の南に隣接する。地名は田楽城(長江平左衛門の砦)大手門のあったことに由来すると伝える。春日井原かすがいばらから入鹿いるかに通ずる街道筋にあり、街道西を河内屋敷、東を辻屋敷という。村に牛山うしやま村・春日井原新田が入込んでいる。寛文一一年(一六七一)の家数二二、人数一六二(寛文覚書)。「徇行記」によると、田は二四町一反一畝余、畑は三町五反五畝余、概高三三八石余のうち二九一石余が藩士八人の給知。


大手村
おおてむら

[現在地名]武生市大手町

味真野あじまのから府中町に通じる府中道が、日野山とその北の孤丘とに挟まれる狭隘部に位置する。東方にある小丸こまる城跡の大手にあたるために生じた村名か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南西いまなんせい郡の西谷にしたに庄に含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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